位を見定め(上か下かで、対等ということはほとんどない)、行動する。この序列意識の弊害の一つは、自分の役割を限定することであろう。公という言葉は、日本では国家・官僚と同義語であると考えられ、公という理念がお役人の独占物になっている。はたしてこれは健全なことなのだろうか。
最近の厚生省、動燃のスキャンダルや大蔵省の失策で、お役所の権威は地に墜ちている。公共の利益と福祉のために、というお上の大義名分のいい加減さが暴露された今、公についての再定義が必要なのではないか。こんなことを考えていたら、ジョージ・ソロスのことを思い出した。
ソロスは資本家である。自称スーパー・キャピタリスト。為替ディーラーとして天才的な才能を発揮して、資産二五億ドル(三〇〇〇億円)を一代で稼ぎ出した。九二年には英国のイングランド銀行(中央銀行)を相手に相場を張り、一〇億ドル(一二五○億円)を儲けたこともある。市場経済が生み出した現代の錬金術師と呼ぶこともできる。ただし、このカネはマネー・ゲームのルールに従って合法的に稼いだものである。
ソロスはスーパー資本家の顔と、もう一つスーパー社会事業家(フィランソロピスト)の顔を持つ。大きく儲け、社会改革のために大きく使うというのが、ソロスの哲学のようだ。ソロスの財団は昨年だけでも三億五〇○〇万ドル(四四〇億円)を寄付している。
ユダヤ系ハンガリー人として生まれ、青年時代ナチズムと共産主義支配を体験したソロスは「開かれた社会(オープン・ソサィエティ」こそが最善のシステムであると確信し、共産主義下の東欧諸国の反体制派を支援してきたが、ソ連崩壊後も東欧・ロシアの学術研究や教育プログラムに巨額の寄付を行っている。米国籍をもつソロスは、最近はアメリカの国内問題にも目を向け、都市最貧困層の若者のための数学教育に一二〇〇万ドル(一五億円)、移民救済のために五○○○万ドル(六三億円)と公のためにカネを使っている。ひとりの資本家が、自らの才覚と哲学で公人の役割を果たしているのである。
投機家が社会改革家であるのは稀有なことであるが、このソロスの例は、公という理念をなにも狭く解釈して国家と官僚の専管事項と考える必要はないということを示している。