
康管理や診療に未知の世界への夢想と挑戦という意欲をかきたてられ、その願望を押さえることができなくなったからだという。
アフリカ勤務は普通2,3年で次はフランスと相場が決まっているが、どういうわけか菅井先生には異動発令がなく、6年間勤務した。
並の人なら、それこそフランス料理やパリジェンヌが恋しいところだが、常にプラス思考の発想でこの間、熱帯医学、エイズ研究に打ち込み、同時進行で公用語のフランス語、はたまた余暇にはチリ大使館文化教室でスペイン語をマスター、などなど、とにかく学習好きで、やはり学者の道への断ちがたい思い入れもあったろう。日本語より英語の方が得意という人で、いまでも生涯学習の実践者。毎朝、5か国語の講座を受講するという。
さらに島に咲き乱れる草花に関心を寄せ、専門書も取り寄せ草花の研究者にでもなろうかという勢いなのだ。インターネットにもコンピュータにも関心を寄せ、医者仲間が比較的多く使っているMAC(マッキントッシュ)の導入を検討している。
発想は常き人・村・国のため
それもこれも、もちろん、奥さんの後押しがあってこそ可能。若い日にシンガポールで「いってらっしゃい」という言葉で羽ばたいたように、離島赴任もまた「いってらっしゃい」の一言だった。しかし、こんなに心強い味方もいまい。
秀子さんの話。
「あの人は、人が好きなんですよ。それは家庭ではなく、他人に向けられ、物の見方が町や村のため、国のためという発想をするんですね。ただ高遭な理想論をかかげるんじゃなく、患者さんの中に入り、共に生活するように、一緒に病気を治そう、という考え方なんです」
どうも学者や普通の開業医とはスタンスが違うようだ、と奥さんは気付いていた。
それが結果的に「人助け」になっていく。奥さんも年に二回は赴任地を訪ねた。2人で世界を見て、ますます妻の見聞も広まり、いっそう夫の行動に理解を深めていく。
「ですから、考え方として医療行為というのは、皆のためになる社会貢献なのだ、というんですね。すべての物は、皆のためにある。家族も皆の中の一つに過ぎないんです」
それは次のようなエピソードによく現れている。
椛島でも医療体制は十分とはいえない。救急艇もヘリポートもない。高齢者のための福祉介護施設も、在宅三本柱といわれるデイサービス、ショートスティはなく、ホームヘルパーは一人しかいない。公民館はあるが、お年寄りがもっと気軽に集まり、おしゃべりや趣味の手作り、歌でも歌える場所として
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