
あなた、いってらっしゃい
菅井健二さんは千葉県銚子市に生まれた。父も兄も医者だった。東京大学医学部を昭和24年に卒業。専門は病理学。自衛隊中央病院など国内勤務を経て昭和36年、政府病理医としてシンガポールに赴任。この後、30年に及ぶ単身での海外生活が続く。奥さんの秀子さんも医者。現在、東京大田区で梅屋敷診療所を開いているから、夫の単身赴任が今や当たり前の時代とはいえ、二人の別居歴は筋金入りといっていい。
最初の海外、シンガポール赴任は夫唱婦随だった。この時の二人の体験が後の人生観に大きく影響する。昭和30年代といえば、海外赴任や旅行など、それこそ限られた人たちだけが飛行機に乗った。が、シンガポールにも仕事をする日本人がいた。この人たちに接しているうちに、世界中で活躍する日本人を医者という立場からなんとかサポートしたい,。夫「学者の道じゃなく、世界に出たい」妻「世界は狭いわよ、いってらっしゃい」
この一言が、菅井先生の行動の原点であったかもしれない。
医者の道には、ひたすら学問を極める人と開業医のように一介の町医者で毎日患者に接する人の二つのタイフがある。夫妻はそろって後者の道を選択するのだが、日本でなく世界という点に夫妻のスケールの大きさを見る。昭和30年代の選択だからこそ余計重みを感じさせる。
以後、夫はシンガポールを皮切りに、南極観測船「ふじ」の衛生長で二回南極に行き、海上自衛隊練習艦隊にも医務長で乗り、海外
企業産業医としてアルジェリア、サウジアラビアで灼熱の太陽の下に身をさらした。さらに、日本大使館医務官として8年間、ザイールとペルーへ。いつのまにか65歳の定年を迎えようとしていた。そして日本に残る一男二女の子供たちは成人に達していた。
夫は好奇心が旺盛なんです
南極は例外だが、いずれも赤道に近い国々ばかりに赴任。そして、帰国して席が暖まる暇もなく離島に関心を寄せ、4年間、愛媛県魚島村(人口約400人)へ。ここの診療体制や予防活動を軌道に乗せると、さらに南下し長崎へと再び、離島を目指した。奥さんの診療所を手伝うという選択もあったのだが、あえて離島を目指す。
その行動力の源泉は−。
「好奇心なのでしょうね、それに私は暖かいところが好きなんですよ」と、快活に笑いながら言う。原風景には黒潮に洗われる銚子、ただ白色だけの南極、気が遠くなるくらいの太陽に焼けた砂漠が網膜に写っていて、そこでの人間の営みに接して医者としての義務をかきたてられるのだろうか。
アフリカの最初の赴任地はアルジェリアだった。あのドゴール大統領から独立を勝ち取った石油の国。首都・アルジェから南下すること600km、葡萄畑や麦畑を抜けサハラ砂漠の天然ガス発掘ブラント工場(日本企業)に産業医として足を踏み出した。赴任を決心するまで関係団体者と1年あまりの下交渉があったが、その頃の心境は「義を見てせざるは勇なきなり」で揺れていた。その一方で、砂漠の中の近代化学工場、多国籍従業員の健
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