
用を寄せ、《先生》を手放したがらない。しかし、現在、医師を必要としている無医村・島は千か所にも及ぶという。
菅井医師は、国家公務貝を定年退職後、4年間の愛媛県魚島村での医療活動を経て、椛島に赴任。椛島での医療活動も間もなく3年になろうとしている。
菅井医師の憂いの元凶もそこにあるのだ。
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長崎県福江市伊福貴376-13.福江市伊福貴診療所。それは岸壁から数秒のところにあった。看護婦3人(うち1人は本窯分院勤務)。
所長、菅井健二さん。土・日を除く毎日、朝九時前に糊のきいた白衣姿で「おはようございます」と一声かげながら診療所に入る。
日焼けした顔色は血色よく、大きな目、高い鼻、それを取り巻く雛の一本、一本に古武士のような深い年輪、豊かな経験を感じさせる。白髪はあるとはいえ豊かな髪をオールバックにまとめ、顔と髪の間の広い額に医師という知性が横たわっている。自宅は診療所のすぐ裏、単身で赴任している。ついでにいえば食事も白衣も炊事洗濯は自分でこなす。島では先生と呼ばれている。
お年寄りの多い島の患者はほとんどが再来で、顔馴染みばかり。お茶の一杯ももどかしくすぐ診察に入る。この後曜日によっては、在宅診療も含めた往診や本窯分院での診療が待っているからだ。お年寄りは耳が不自由なせいか、菅井先生の声も大きい。
「薬はまだ、ありますか」
「まだ痛みますか」
「ちょっと血圧が高いかな」
ていねいな言葉遣いで、患者の目の高さに
自分の視線を合わせて話し、患部に手をやる。それは、医療行為には違いないが、お年寄りの生活、生き方を励ますような、あるいは彼等の私的時間を人間同志が共有するように医者・患者の間にある壁を取り払っていく。
看護婦の運転で往診に行く先々で、その壁がまったくないことに気付く。診療に10分〜20分かかってその後、おしゃべりに話の花が咲く。時にはお茶ではなくビールや焼酎も出る。つまみも用意されている。話題は尽きない。病気の事、戦争体験の事、島の歴史、風物の事。患者や家族の長崎弁、先生の東京弁が入り交じり、部屋中は声の掛けあいのように、冗談や笑いでいっぱいになる。
患者は医者を待っているのではなく、菅井健二という、自分たちと同時代を過ごしてきた一人の人間を待っているのだ。経歴を知る人は東大卒の医者、30年に及ぶ長い外国暮らし、前任も離島医師という稀有な体験者のエキスをまるで己の中に取り込み、元気になろうとしているかのように。

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