日本財団 図書館


人にとって旅行というのは、実は昭和に始まったといいますが、私はもっと初期からそういうことがあったのではないかと思うのです。
日本が鎖国を解いて開国し、幕末・明治には海外に留学生や使節団がたくさん出かけるようになりました。あの人たちの行為は普通は「留学=海外の文明を摂取する」、それから「使節団=海外との交流を行う」というように表向きはいわれているのですが、その見聞記や旅行記を見ますと、旅ではなくて旅行的感覚による行為を大変たくさんやっているのです。とくに有名な、1873年に日本を出発した岩倉使節団は、欧米先進文明を学ぶという目的で、岩倉具視をはじめとする、いわゆるそのころの内閣総理大臣にあたるような連中が、日本を留守にして1年以上海外に出かけるわけです。どういうところを見て回っているか。読んだ方はご存じだと思いますが、例えば動物園であるとか植物園であるとか、博物館、美術館、もちろん工場、それからいろいろな産業施設、鉄道、当時のことですから武器・兵器の工場も見るわけですが、彼らの感覚にとってはこれは全部同じなのです。
今、欧米に視察に行って、動物園、植物園、博物館、美術館に行くというと、ついでに観光をするのだなと思われる。その分野の関係者以外は公務として堂々とは行けないわけですが、当時の指導者にとっては、文明施設の動物園、博物館と兵器工場というのは、もちろん少し位相は違うと思いますが、ほとんど同じ感覚である。そこで、十分に楽しんでいる。感心しているわけです。同じように感心するというのは、自分が見たことのない施設、日本にない施設を見る行為が仕事であり、観光だったからです。今は動物園、博物館というのは観光施設で、兵器工場とか鉄道は何か別の学問的あるいは産業的旅行団が見るものだと分けてしまいますが、当時はまったく同じだったわけです。
それを考えてみますと、われわれにとって観光の対象になるものは何かは、原点にかえって考えてみないといけないと思います。いわゆる、今われわれが観光施設だと思っているものが、未来永劫ずっと観光施設でありうるかということと、今われわれにとって観光の対象でないと思っているものが、いつ何時観光の対象になるかもわからないということを示していると思うのです。そういう点で、初期の日本人の海外への留学や使節団の派遣というものも極めて観光的要素がたくさんあったし、旅行気分というか、そういうものがたくさん込められていたと思うのです。
そういうことを通じてこそ、近代文明とは何かとか、西洋の先進文明とは何かということを、全体的に捉えることができたと思うのです。ですから、公費での出張の途中に、ぜひ観光をしなさいとストレートにいうのはなかなかいいにくいわけですが、出張先である目的地だけを訪れて、それで帰ってくるというのは非常にもったいないことである。誰もがある土地を訪れるならその土地の総合的なものをもち帰りたい、知りたいと思うのが当然でしょう。教養と観光というものは切リ離せないようなものであろうということを、とくに初期の開国した日本の旅行感覚のなかから読み取ることができるだろうと思うのです。
2.旅行=観光の歴史
そういう留学や旅行を支えていた日本の旅行環境といいますか、旅行業の環境を考えてみたいのですが、日本の旅行業の草分けは、私は実は喜賓会(ウェルカム・ソサエティ)という組織にあるだろうと思っています。この喜賓会という組織は、明治26年(1893)に生まれた組織です。会員はほとんどが当時の政治家、貴族、企業人のトップクラスの人たちです。明治の財界の大物でありました渋沢栄一、それから、当時はまだ巨大なグループをなしてはいませんでしたが、その三井の元締めであるといわれた益田孝というような人物が、フランスに視察に行きまして、旅行というのは今後日本にとって大きな産業になりうるという予感を抱いて帰ってきて、東京商工会という今の東京商工会議所の前身で、そういう提言をするわけです。
フランスを視察しましたからパリの見聞が多いのですが、パリというのは、なぜあんなに栄えているか。それは、外国からやって来る人たちを受け入れる装置が完璧にできているからであると考えるわけです。彼らは外国の文化を人を通じて受け入れる、そういう装置をもっているということで、つまり、パリが繁栄しているのは外来の観光客のためであるという結論にいたるのです。そして、日本もそういう形で大きな繁栄を手に入れることができるのではないかという発想で東京商工会で提案するのですが、その頃はほとんど反応がありませんでした。旅行業が儲かるとか、商売になるとか、営利企業でありうるという発想はなかったわけです。基本的に、当時は富国強兵の下

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION