して現在でも、就業人口の約27%は農林業に従事している。ただし南部には1,000メートル級の山脈が連なり、ザコパネなどスキーで知られる地域も存在する。
東欧諸国の中では例外的に少数民族の比率が小さくポーランド人が人口の97.6%を占め、以下ドイツ系が1.3%、ウクライナ系が0.6%、ベラルーシ系が0.5%と推定されている(1)。国民の9割以上がカトリック教徒であることから教会の影響が強く、現在のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世もポーランドの出身である。
ポーランドの近現代史は、外国の支配とそれに対する抵抗の歴史の連続であった。14世紀から15世紀にはヤゲウォー王朝が中欧で大国の地位にあったが、その後16世紀にヤゲウォー朝が断絶すると貴族問の対立が激しくなったことで国力は弱体化し、18世紀末にはロシア・プロイセン・オーストリアの三帝国によりポーランドは分割されることになった。その後ポーランド人は独立の回復を求め、19世紀には再三の抵抗運動を引き起こした。そしてようやく1918年に国家を再建したものの、第二次世界大戦の開始と同時に今度はドイツ軍とソ連軍の侵攻を受けた。この時首都ワルシャワはドイツ軍に対して最後まで抵抗し、また1944年にはドイツ軍に対する大規模な反乱(ワルシャワ蜂起)を展開したが、そのために都市のほとんどを破壊されることになった。
戦後は、冷戦の進展に伴いポーランドはソ連の勢力圏の下におかれることとなり、その圧力の下で社会主義化が進められた。だが「労働者の政権」の看板を掲げつつ実際は国内の労働者よりソ連共産党の意向に従う社会主義体制に対しても、国民は1956年、68年、70年、76年、80年と再三にわたり抵抗の動きを示した。特に80年に結成された自主管理労組『連帯』を中心とする運動は、戒厳令の導入による強制力を用いた弾圧によっても抑圧することはできず、最終的に1989年の『連帯』側と体制側との円卓会議を導くに至った。この円卓会議が、その後の東欧諸国の一連の変革の端緒となったと同時に、地方制度を含めた現在のポーランドの政治・経済の制度はこの時の合意を出発点として形成されている。
(2)現在の政治制度
円卓会議以降ポーランドでは政治・経済面での制度の転換が進められたが、政治的な事情から新しい憲法は本稿の執筆時点(1997年1月段階)でも制定されていない。「司法」と「人権」の分野については1952年制定の「ポーランド共和国憲法(1989年12月までは「ポーランド人民共和国憲法」、通称「スターリン憲法」)」の条文が現在でも一部修正の上で適用されており、「立法」と「行政」、並びに「地方自治」に関しては、1992年10月に採択された「ポーランド共和国の行政府と立法府の間の相互関係、並びに地方自治に関する憲法的法律(通称「小憲法」)」が基本的な規定を与えている(2)。だが「小憲法」は新憲法が制定されるまでのつなぎとして採択されたこともあり、その規定には