のように概括できる。
ここで、ゼムストヴォとソヴィエト制をどう理解するかは論争的な問題である。帝政ロシアの地方制度は、大陸型か、それともアングロサクソン型か。たしかに、専制権力下においては大陸型以外の地方制度はありえないと論じることは可能である。実際、法理論としては、大改革当時の社会理論(国家とゼムストヴォは並行して存在するという議論)はやがて廃れ、1880年代には国家理論(ゼムストヴォは国家の機能の一部を委ねられ遂行するという議論)が優勢となった。また、皇帝によって任命される県知事は、ゼムストヴォが従事するあらゆる業務を監督する建前となっていた。しかし、実質的には、国家官僚制とゼムストヴォの間には、活動の得手不得手に基づく分業関係が成立していた。ひとことでいえば、ゼムストヴォは、活動の創造陸を要求する社会経済的な活動、医療、教育、農事改善、協同組合援助などに特化し、これらの問題に関する県知事の「監督」は、事実上、ラバースタンプそのものであった(5)。こうした点では、帝政期ロシアの地方制度の実質は、アングロサクソン型の特徴を備えていたと筆者は考えている。
これは、反面では、ツァーリ体制が近代化に向けて国民を動員するような体制ではなかったことを示している。他の後発資本主義国、たとえば日本やドイツにおいては、教育や福祉政策を国が自治体に任せきってしまうようなことは到底ありえなかったであろう。こうした「ひとまかせの近代化」とでも呼ぶべき態度を改めたのが、ソヴィエト政権であつた。
ソヴィエト制は共産党一党体制と不可分な制度であったため、後者と切り離して前者を論ずることはあまり意味がない。ソヴィエト制下でどの程度の「地方自治」が存在したかを考察するには、下級ソヴィエトが上級ソヴィエトに対してどの程度の自治を主張し得たかを見るだけではなく、下級党機関が上級党機関に対してどの程度自治的であったかを見なければならない。しかし、行論の関係上、ここでは党の問題に触れないことにする。
ソヴィエト制が国際的に類例を見ない制度であったと考える理由としてしばしばあげ