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からなった。郡と郷の剛こは、管区(uchastok)というアド・ホックな区画があった。県はヨーロッパ・ロシア約400万平方キロメートルにつき42存在した。つまり、県の平均面積は10万平方キロメートル弱、つまり北海道よりもやや大きい程度であった。県の平均人口は200万人弱であった。筆者の試算によれば、同じ欧露において郡の平均面積は9千平方キロメートル弱であり、他方、郷は平均して半径約11キロメートルの単位であった。村は同じく欧露に約10万5千存在し、平均して約300人の男予人口を抱えていた。面積において欧鰍こはるかに及ばない日本において、1834年の村の総数が欧露の3分の2程度の6万3,562であったことを考えれば(1)、ロシアの村々がいかに広大な空間に散在していたかがわかる。革命後の行政区画分けは複雑な過程を辿ったが、1960年代には、革命前の行政区画との対比において、図表1に示されるように3層システムに落ち着いた(2)。

図表1においては、縦の位置関係が面積規模を表現している。つまり、こんにちの村管区は革命前の村(共同体)よりは大きく、郷よりは小さい単位である。「地区」は、革命前においてはアド・ホックな区画にすぎなかった管区にほぼ匹敵し、州・民族共和国は、革命前の県よりは小さいが、郡よりは大きい。村の規模の拡大は、革命後、一貫して推進されてきた村合併の緒果である。最も有名なものは、フルシチョフ政権下で行なわれた村合併である。郷もまた1920年代において合併が推進され、20年代末に郷が「地区」によって置き換えられる直前には、前者は既に後者の面積規模にほぼ達していた。

当然のことながら、ここで、ロシアの村合併を日本の町村合併と比較してみたいという誘惑に駆られる。近代日本の町村合併には2つのピークがあった。明治21年の市制・町村制施行に伴う町村合併と、戦後の地方自治法施行に伴う町村合併である、ロシアの村合併が中心村落への労働年齢人口の集中・周辺村落の過疎化を図表1行政区画の変遷結果したのに対し、日本の町村 合併は、伝統的な共同体の衰退を結果しなかった。市制・町村制以前の「村」は「集落」として、また、市制・町村制の施行から戦後の町村合併までの期閤における「村」は、多くの場合小学校校区として、ともに一種の自治機能・行政の補助機能をこんにちも果たし続けている。こんにちのロシアの村管区に機能的・人口的に該当するものを日本に求めれば、それは、市制・町村制施行から戦

 

 

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