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の流入人口が増え続け、とくに区部での増加が著しかった。
 そこで安井は1年半をかけて、東京の成長を抑制し郊外の発展を充実させる“首都圏”構想をまとめる。区部を高層化し、その周辺をグリーンベルトで取り巻き東京の膨張を抑え、同時にその外縁25キロ圏内に30の衛星都市を作り出すという雄大な計画で、ロンドンの計画を参考にしたものであった。しかしこの構想は、明らかに都政を超えた次元にあった。端的に言って通常の都政の枠組みでは対応できず、必然的に国政に対する改革を促すものであった。関東一円の県を合併して大東京都にするか、強力な調整機関を国政レベルに置いて東京周辺の県に協力させるか、道は2つに1つである。
 安井はなぜこのようなチャレンジングな構想を提示したのか。無論3選出馬のための選挙戦略という側面はぬぐい難い。だが当初安井自身は3選に消極的で、むしろ国政に転じたいとの希望を持っていた。吉田内閣末期、新聞辞令とはいえ、大臣としての入閣が噂されており、安井自身いずれはとの思いを持っていたことは想像に難くない。事実3選目を務め上げ、都知事を引いた後、安井は代議士に転じているのだから。
 グレーター東京の構想は、その実現のためには首都建設法以上に国政シフトを強化する必要があった。安井には、自らこの国政シフトの要となり国政の側からグレーター東京を推進する希望があったのであろう、大東京都の実現の可能性があるのならまだしも、個別の地域開発立法が目白押しであった1955年(昭和30)前後の状況では、首都圏整備法という地域開発立法のほうが通りがよかったからである。
 だが安井は適切な後継者を得られなかった。それはなぜか。国政の混迷のためである。
 1954年から55年にかけて国政レベルでは、造船疑獄から保守小合同による民主党の結成、そして吉田自由党内閣から鳩山民主党内閣への交代と、目まぐるしい変化が生じていた。しかも保守の混乱に乗ずる形で、革新は憲法擁護というイデオロギー的争点をもって保革対決の磁場を作り上げつつあった。左右社会党は協力して、戦前目独伊3国軍事同盟に反対し戦後は護憲連合に転じた元外相有田八郎の擁立を図った。
 革新の側もまた、1955年の都知事選に際して、都政を超えた争点設定を行った。有田は戦前の外務官僚であったが、1940年(昭和15)に外相を退いて以来15年間のブランクがある上、都政についてはまったくのシロウトであった。
 結局、安井は有田の挑戦を受ける形で保守系候補として立たざるを得なかった。大接戦の末、辛うじて安井は最後の追い込みで3選を果たした。有田119万票に対し、安

 

 

 

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