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井は130万票、11万票差の文字通りの辛勝であった。ストリートレベルの戦災復興が一応終わって後、首都建設法の失敗と相も変わらぬパッチワーク行政の現実にあきたらぬ都民の多くが、革新の側が設定した憲法擁護という都政を超えた争点に、賛意を表明したことになる。ちなみにこの都知事選から半年後、国政レベルでは保守合同と社会党統一が実現し「55年体制」が誕生するが、国政レベルにおいて社会党が憲法改正阻止の3分の1を上回る議席数を獲得したことは、安井・有田が激突した都知事選の結果から容易に想像できることであった。
 だがこの保革対決でも肝心の“首都性”の議論は、空回りした。なるほど「実務性」の極致を示す保守と、行きすぎた「実務性」を「象徴性」に引き戻す革新。しかし「グレーター東京」や「護憲と平和」は確かに国政をまきこむ争点ではありえても、首都論争という点ではずれ違いに終わったからである。一方はハード、他方はソフトの領域に各々たてこもり、生産的な議論の展開には至らなかった。
 結局のところ安井が僅差で勝ったものの、「実務性」都知事の限界はあまりにも明白であった。しかし「経済白書」の中の「もはや戦後ではない」というフレーズが流行語になったのも、実は翌1956年のことである。急速に変化を遂げるポスト戦後状況は、「象徴性」を有田に求める“革新”の限界をもあらわにしていた。なぜなら、“保守”の側における吉田茂に続く重光葵の引退は、戦前派外務官僚の退場を示唆していたからである。

6 オリンピック知事の「象徴性」

 とまれ、有田優位の状況下で迎えた59年選挙では、“保守”の側も「実務性」ではなく、「象徴性」を都知事に託すことになった。すなわち戦後復興の象徴的イベントとしての東京オリンピック開催を目標にすえ、IOC委員で東大名誉教授の東龍太郎を擁立したのである。有田にも東にもカリスマ性やスター性は欠如していたが、学者とオリンピックという取り合わせによる勝利は、結果として“保守”がポスト戦後状況をいち早く先どりしたことを意味する。
 “保守”は以後8年にわたる東都政の間、多分に「象徴性」に傾いた都知事を前面的に補佐するために、副知事に「実務性」を保障させることにした。「総理・総裁分離」ならぬ「象徴知事・実務知事分離」であり、ここに当時自治庁次官を経て内閣官房副長官であった鈴木俊一が登場する。鈴木はかつて若き内務官僚時代、東京都制の成立お

 

 

 

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