度に、DCの自治権が制約を受け、連邦政府による「金も出すが、口も出す」という解決策が取られてきた。
第一次世界大戦に参戦した1917年には、政府機関が戦争遂行のために多くの人員を必要としたことから人口が増加し、参戦当時の約35万人から翌年には約45万人に急増した。1930年代の大恐慌時には、不況対策としての計画遂行のために首都での雇用は1940年までに66万5000人まで増加した 5)。
当初、連邦政府は、DC内の上地を課税されずに所有している代償として、DC予算の50%を負担することになっていたが、当時は10%台まで負担が低下していた。このような状況から、「金を出さないのならば、口は出すな」ということで、DC住民による自治権獲得運動が起こってきたのである。
1940年代前半の第二次大戦後やその直後から朝鮮戦争までの軍事支出の上昇やその後に生じた軍事財政から福祉財政への構造転換等を経て、連邦政府の機能も拡大し、1950年におけるDCの人口は、80万人を超えるに至ったが、この時期以降、DCの人口は減少に転じ、1970年には約75万6000人まで低下している。1973年には、以前からのDC住民による自治権要求が認められ、連邦議会は、DC住民に対して市長や市議会議員、その他の職員の公選権を与えている 6)。ただし、DCの自治権は制限を受けていた。すなわち、連邦議会はDCに対して予算の提示を求めており、DCの支出は連邦議会の承認があってはじめて支出が可能になる。そして、DCは一般歳入と歳出、向こう5年間の資本計画、5年間の財政計画からなる予算を毎年準備する。他方で、他の非歳出法案については、連邦議会と大統領の拒否権の下に服してはいるものの、基本的にはDCの市議会で立法化される。なお、自治権の承認以前には、DCは資本資金を財務省より借りていたが、承認以後は、資本資金の調達のために市債を発行する権限をもつようになった。
このように、DCの自治権に関して前進がみられたものの、DCにおける人口の減少には歯止めがかからず、1995年には55万4000人へと急速に減少し、1970年から1995年にかけての25年間で人口の減少率は27%を記録した 7)。これは主として治安の悪化等を避けるために中産階層の白人が郊外に移動したためで、1990年代におけるDC財政の深刻な悪化をもたらすこととなった。
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