連邦議会は、12年には、市議会を上・下院制、かつ市長をその議員により選出、20年には市長の直接選挙に、それぞれ憲章を改定した。
しかし、1874年に、ほぼ一世紀前、州公債問題が首府ワシントンを誕生させる動因となったのと対照的に、市の公債問題、財政危機一市の近代化を目指したワシントン市長の無理な都市建設計画がその一因であった一が、自治制度の剥奪を招くこととなった。
すなわち、71年に公選のワシントン・ジョージタウン両市の市長・市議会議員は連邦議会により罷免され、71年から74年までの、大統領任命の長(govemor)と参事会、住民選出議会、及び連邦下院への投票権のない代表一名という妥協的な制度を経て、連邦議会は、同年の暫定法、および次いで78年の組織法によって、連邦が公債を引受け、かつ首府運営にかかる毎年の費用について地区の納税者と均等に負担する手段で、コロンビア特別区の支払能力を保障することと抱合せで、ワシントン市の自治政府を廃し、再び大統領任命の三名からなる委員会(Board of Comissioner,2人は文民、1人は軍技術者)を行政機関として設置したのである。ここに、以前のワシントン市とジョージタウン市、そしてワシントンカウンティーを包摂する地域政府(territorial govemment)たるD.C.が登場したことになる。そして、アメリカの他都市の発展もあってか、丁度この頃から、ワシントンについて、統合象徴的な「連邦都市」(Federal City)という呼称が用いられなくなる。
当然ながら自治政府に関与する選挙権の剥奪を伴ったこの措置に関して、住民各層に正面切った反対は見られなかった。まず、白人の富裕層は、連邦議会の発想と同じく、選挙権の剥奪は、むしろ、市政府が黒人に支配されないためのセーフ・ガードととらえ、また、納税負担の点でも、無産の下層民(riff-raff)の圧力からの解放という点に新制度の利点を見出した。また、政府委員による支配に懸念をもったむきも、楽天的に、この制度は財政難下の暫定的措置と考えていた。さらに、一八六七年来享受してきた選挙権を失うことについては不本意であった黒人教養層も、南北戦争後獲得してきた種々の「市民的権利」の保護をむしろ「連邦」に期待したからである。
しかしながら、かれらに共通したのは、市の放漫財政に対する連邦議会の不信の強固さ−−それもあってその後ほぼ百年にわたり、自治制度の復活は阻害されることになる−−を認識できなかったことであった。
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