公益事業(ガス・水道・電気・路面電車やバスなどの公共交通)への参入を拡大した地方公共団体は、さらに単一目的団体の権限を吸収し、また中央から新たな権限を付与されて、そのピークを迎える。ただし、この時期にも地方税はレイト(資産税)のみであったことは、特記すべきであろう。後の時代と異なり、公益事業は地方公共団体の重要な歳入源であった。また、当時はまだ「小さな政府」の時代であり、公益事業収入に資産課税と国庫補助を組み合わせれば、地方はさまざまのサービスを提供することが可能であったのである。
しかし、1930年代以降、イギリス地方自治は「衰退期」に入る。その理由は、1)第二次世界大戦後の労働党政権下でガス・電気などの国有化によって、公益事業部門によってはたしていた機能の多くを失う一方、2)ニュータウン建設など、新たな事業は中央政府の手によって行われることとなり、国有化などによって失われた機能に代わるものとして特に新しい権限を得ることがなく、かつ、3)政府支出が全体として増大し、地方公共団体の支出もまた増大した第二次世界大戦以降においても、地方税をレイトのみに限定していたことが、結果的に国庫補助の割合を増大させたことなどが、通常指摘されている。[6]
(3)1960年代、70年代の改革
このような「衰退」に対処するための改革は早くから議論されていた。まず1965年には、グレイター・ロンドン・カウンシル(GLC)が設置されている。第二次世界大戦後、ロンドンの人口は急速に郊外に移転した。このロンドンの事実上の拡大と、ロンドンの労働党による支配を自らの支持層の多い富裕な周辺地域を編入することで脱却しようという保守党の利害が、周辺カウンティの一部ないし全部をLCCに編入する形で、GLCを生み出したのである。これによって、ロンドンはその面積を大幅に拡大(117平方マイル→620平方マイル)し、統合によって数の減少した33特別区(ロンドン・バラ32+シティ・オブ・ロンドン)の二層によって、地方自治が行われるようになった。ただし、このGLCには、それまで独立した単一目的団体によって担われていた一部の権限、たとえば地域交通がGLCの権限に加えられた(1969年)ものの、ロンドン以外の地域ではカウンティに委ねられていたような業務、たとえば教育、消防が特別区の共同処理機関に委ねられ、また上下水道、港湾管理などは依然単一目的団体の手にあったことは留意しなければならない。[7]