市団体法は、しばしばイギリス地方自治史の最初の最重要立法と考えられている。
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しかし、1834年の救貧法がそうであったように、揺藍期の地方自治は単一目的団体を設置し、そこがその目的だけのために徴税を行い事業の執行を行うといった形態をとっていた。同様に、1835年道路法にスタートする近代的道路整備は、1862年道路法による道路区の設置を、また都市の保健衛生問題は都市衛生区を生み出したのである。これらの単一目的団体の重複と錯綜、また規模の問題を解決するための試みの一つが、1872年公衆衛生法による、衛生区を複合的な目的に用いようという試みであった。[4]
このような揺藍期と上昇期の区分をなすのが、1888年の地方自治法である。この法律および1894年地方自治法、そして最後にロンドン地域の地方自治制度を整備する1899年ロンドン・ガヴァメント法によって、総合的・多目的の公選団体が、地域内の徴税を行い事業の執行を行う、つまり地方自治の体制が確立したのである。19世紀末には、イギリスには58のカウンティ(県)と82のカウンティ・バラ(県と対等の特別市)、そしてロンドン・カウンティ・カウンシル(LCC、ロンドン県)が存在し、その下部の基礎的地方公共団体(ノン・カウンティ・バラ、ディストリクト……以上がカウンティの下にある地方公共団体、ロンドン・バラ、シティ・オブ・ロンドン……以上がLCCの下の地方公共団体)と併せて、一層制と二層制を組み合わせた地方自治がスタートしたのである。
20世紀に入ると、特に大都市を中心とした「ガスと水の都市社会主義」によって