味づけに関与する記憶には潜在記憶や暗黙知があるために、われわれは意味づけを知り尽くすことができない。これを《不可知性》と呼ぶ。これら四つからなる《意味づけの不確定性》によって、実は、それぞれの主体にとってコトバの意味はあらかじめ確定しているわけではない。したがって、われわれが相手のコトバを意味づけるとき、意味はいつも偶有性をはらみつつ形成され、形成された意味にも、原理的には、いつもなにがしかの偶有性がまとわりついているのである(それに気づくかどうかは別として)。もちろん、意味づけには不確定性だけでなく共有の秩序性もある。それがコミュニケーションをまがりなりにも可能にしている。ともあれ、コトバの意味があらかじめ確定していないこと(すなわち、コトバと記憶の関連配置とが確定的に結合していないこと)、この不確定性が、新しい意味の創出を可能にしている。しかし、一方では、誤解や理解不足を招き、ときにコミュニケーションを破綻させもする。コミュニケーションは、不確定性をはらむる意味づけの相互作用プロセスであるがゆえに、不確定性の重奏プロセスなのである。コミュニケーションが意味・価値を創出するのも、また、破綻するのも、この不確定性ゆえである。この不確定性に関連して「アイディアの共有ということ」にも付言しておくべきことがある。われわれはアイディアの言語表現を共有することはできるが、れども、厳密な意味で同一のアイディアを共有することはできない。アイディアは各人の心の中に形成されるそれぞれなりの意味のまとまりであり、各人固有の記憶から形成される関連配置である。意味づけの不確定性がある以上、それが主体間で完全一致していることは原理的にありえない。アイディアの共有とは、各人の心の中のそれぞれのアイディアがそこそこに齟齬をきたさないように互いにアコモデートされた意味同士の関係でしかない。「部屋を共有する」というときの<共有>と同レベルの共有ではない。合意文書に互いがサインしたにもかかわらず、後になって、その解釈を巡ってしばしば紛争が生じるのもそのためである。厳密には、文書の共有は意味の共有ではない。実際、「レストラン・カリブー:プロジェクト」の計画書から両氏が描くヴィジョンにおいて、料理メニュウのイメージは、B氏の方がA氏のそれよりずっと念入りであろう。また、
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