セッションよりも小さい。それでも、各奏者たちの曲想解釈と演奏ぶりには自由度があり、協働的色彩が濃い。また、(南米系の)サッカー、漫才、即興劇など、即興性の強い複数主体によるパフォーマンスは濃淡のちがいこそあれ協働的である。これらのパフォーマンスもコラボ財と呼んでよいだろう。あるいは、グループワークによって開発される新製品もコラボ財である(より正確には、後述するが、新製品に具現化されているアイディアこそがコラボ財である)。要するに、全体統制的ではない、参加者の主体性・特性を活かす共同作業がコラボレーションであり、その産物がコラボ財である(注3)。してみれば、しなやかで自律的な主体たちの協働が決定的重要性をもつコラボ財が世の中に無数に存在する。コラボレーションが、成功すれば個の総和以上の新しい価値を創出する創造的な活動であり、しかも、個の主体性・特性を活かす活動であるとなれば、価値の創出形態としてこれが注目されるのも当然である。
(3)未来を創り出すアイディアこそ究極のコラボ財
上述したような演奏会、ゲーム、新製品など、創出価値を具現する《コラボ財》そのものは、確かに、参画者たちの物理的行動の産物である。しかし、この物理的事物が実現するにあたっては、それに先行して、そのコラボ財が心の中に創り出されなければならない。心の中に創出されやがて具現化されることになる非物理的な未来の事物、すなわち、《アイディア》が創出されなければならないのである。そのアイディアが個々の行動を有効に統合するからこそ、共同作業が成り立つ。そして、その共同作業がたんなる共同ではなく協働となるのは、それが個の総和以上の価値あるアイディアを生み出すときである。ここで協働の二つの側面を区別して考えることが肝要になってくる。というのは、物理的な材としてのコラボ財はなるほど《物理的協働》の産物ではあるけれども、アイディアそのものは、《コミュニケーション協働》の産物だからである。コラボ財が個の総和以上の価値をもつのは、実は、協働によって創出されるアイディアが個のアイディアの総和以上の価値をもつ場合なのである。コラボレーションの核心をなしているのは、アイデ