開の論議によって最小化するという市民的公共性が担っていた規範的な力は、大衆民主主義の現代において無力化してしまっている。しかし、大衆民主主義の社会福祉国家的な憲法的諸制度は公論の健在を予定するものであり、公論こそ依然として政治的支配の正統化のただ一つの公認された基盤であれば、現代社会は新たな公論の在り方を探り、現代の公共性を再構成することなく諸矛盾を克服することはできない。ハーバーマスは、すでに30年以上も前に、大略以上のような現代社会における公共性喪失への警鐘を鳴らしている。しかし、この問題提起は少しも古びていない。それどころか、先進諸国の政府規模は、社会保障の拡大を主要因としてさらなる拡大を示し、”大きな政府批判”の論調を巻き起こしつつも、なお人口高齢化とともに増大が予想されている。そのなかで、福祉を巡る公・私の役割分担や国民の負担の在り方について国民的合意を形成することは容易ではない。福祉社会の将来は、原理・原則を欠いたままに国民各層の利害のパワーポリティックスによって揺れ動き続け、やがて疲弊するのであろうか。それとも、豊かで活力のある福祉社会を切り開くことができるのだろうか。従来の産業社会の延長でしか未来を考えないのであれば、見通しは暗い。しかし、人間の能力は多様であり、加齢と共にますます充実する能力もたくさんある。そうした能力を活かした社会編成を実現できれば、高齢社会の未来はけして暗くない。市民的公共性の危機は、市民たちが政府をわがものとし、自らの福祉追求の手段として積極的に利用しはじめたことによって顕在化した。福祉は、市民1人1人のものであって、伝統的区分では私的であって公的ではない。しかし、相互依存を強める現代の経済社会にあって、アテネのオイコス所有者である自由市民や資本主義勃興期の裕福なブルジョワのように、個人の力だけで福祉を追求することは、大部分の市民にとってもはや不可能である。医療保障、公的年金、あるいは、後期高齢期の生活をサポートする介護などの諸サービス、これらは尊厳ある個人の生活を全ての市民に可能ならしめるための施策として発展してきた。これらの施策は、もはや伝統的な公・私の区分を前提とした租税論や、単純な保険理論による対処で賄えるものではない。尊厳ある生活とは、生涯にわたって自律的に自己実現を求め続けられる生活であり、それは、依存や隷従、あるいは、応分の責任を回避した権利要求とは相容
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