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1526年にオスマン・トルコに侵略され、以後2世紀に亘ってハンガリーは国土の大部分が、オスマン・トルコの支配下に置かれた。

次いで、17世紀末にはオーストリア軍に占領され、その支配下に入った。第1次世界大戦では、ドイツ側に参加し、大戦末期にオーストリアから分離した。その後、ソビエト政権ができたが、数カ月で崩壊し、ハンガリーは再び王制に復帰した。

敗戦処理で、ハンガリーは国土の多くを失い、経済的危機に陥ったため、国民は失地回復運動に立ち上り、第2次世界大戦では枢軸側に加担した。第2次大戦末期の1944年に、ルーマニアを席巻したソ連軍がナチス軍を追撃して、ハンガリーに進攻し占領した。

その結果、政治面で共産党が活躍して、政治の指導権を左翼勢力へ移行させた。

1949年にハンガリーは共産主義人民共和国を宣言して、社会主義化を推進したが、問題が多く、56年10月3日に反スターリン革命が勃発し、動乱となった。

56年11月1日、Imre Nagy の率いる新連立政権は、ワルシャワ条約から脱退し、国連に保護を求めた。

56年11月3目、Janos kadar はNagy 政権に反対の政府を組織して、ソ連に援助を求めた。ソ迎軍は革命を鎮圧して、Nagy と閣僚を逮捕し、Nagy は58年に死刑を執行された。

Imre Pozsgay の率いるハンガリー社会労働党(共産党)内の革新傾向は、89年10月を最後に自滅し、ハンガリー社会党として再組織された。

89年10月23目、国会は憲法を改正し、国家体制を「人民共和国」から「共和国」に改め、ハンガリー動乱の勃発日である10月23日を共和国樹立の日と定めた。

また、「マルクス・レーニン主義党が社会の指導的勢力である」との規定が廃止され、更に、「社会主義国家」という表現から「独立・民主主義国家」に変更された。

わが国との関係では、第2次世界大戦後しばらくは両国間の国交は断絶していたが、1959年8月、国交回復に関する交換公文によって国交を回復し、60年に公使館を相互に開設した。その彼64年6月、相互に大使館に昇格させた。

その後、両国の関係は堅実な発展を遂げている。88年からのハンガリーの民主化





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