さり何かと助けて下さったのと、勇気を出して分からない事は学校の先生やボランテイアの方に聞くようにしました。
体育館の板の上に寝ているので背中が痛くて眠れず、職員室に行くと運良く教頭先生がおられ話を聞いて指圧をしてくださったり、難聴者であることを話すと、とても親切にしてくださった事は忘れる事は出来ません。
私は「耳の不自由なに理解のある人と聴障者のふれあいの場」として作られた「レッド・ベレーズ」というハイキングクラブに入会しています。その会は、ハイキングを主体に老若、男女共に楽しく交流しています。その「レッド・ベレーズ」が地震後すぐ、救援隊を結成し、交通もままならない中をハイキングで鍛えた足を生かし、住所録をもとに仲間達を尋ね歩き慰問したのです。私の全壊した家と避難所を一時間位探し回ったそうです。
「レッド・ベレーズ」創立者の本田耕造さんをはじめ、多くの仲間の顔を見た時には涙の洪水となりました。一人暮らしの私を心配して、本田さんが自分の家へ連れて帰るとのお言葉に胸がつまり、素直にお受けしてお世話になりました。何かの連絡に備え、少しの荷物の上に本田さん宅の電話、FAX番号を書き、避難所での場所も確保しておきました。
仮設住宅入居が決まるまでの3ヵ月間、本田さん以外の仲間達の好意も受けジプシー生活も体験しました。仲間達はそれぞれに最善をつくしてくれましたが、やはり長くなればいろいろ気を遣う事もありました。でも多くの事を学び、仲間達には感謝一杯の思いとご恩を忘れた事はありません。情報についても本田さん宅へ全てFAXで送られてくるので知ることが出来たのも幸いでした。私の場合はたまたま「レッド・ベレーズ」の仲間のお陰でいろいろ助けて頂けたのですが、この様な仲間のいない人、家族の居ない難聴者は、情報の保障も得られず不安でたまらない毎日だったと思います。健常者の中での孤立は不安を募らせることにもなります。現在私の住む仮設住宅でも同じ事がいえます。私も含めて独居老人の多さにびっくりしました。周囲では難聴者は私だけの様であまり近隣同志の交流は有りません。老人クラブも設立されたのですが入会する気になれませんでしたが、ひょんな事から会長さんと親しくお話するチャンスがあり、進められるまま万一のことも考え、最近入会しました。でも行事への参加は出来ないでいます。難聴者である「ひがみ」でしょうか。健常者ばかりの中へ入ることへの抵抗があるのでしょう。又仮設は満足な建物でないのでお互い我慢も必要と思うのですが、細心の注意をはらっての毎日の生活でも、隣の中年の健常者からは「テレビの音量が高い、朝起きるのが早すぎる」等度々苦情を言われ、頭の下げっぱなしで悲しくなります。
耳の悪い人の立場で一日耳栓をして生活する、目の悪い人の立場で一日眼膜をして生活する、と震災後テレビで永六輔さんが話しておられました。理解のある方だと嬉しく思いました。どれだけの人が障害者の痛みを理解しているでしょうか。ぜひ体験してほしいものです。緊急時、避難所、仮設住宅でも「同じ境遇の人が共に行動出来、そこには必ず情報が保障される」というシステム作りが必要です。障害者を援助する行政とボランテイアのネットワーク作りが望まれます。
現在、私は住宅の事で毎日が不安です。恒久的な住まいとしては50年来住み慣れた元の住所周辺へ戻りたい思いは強くてもままならず、一人暮らしではとても知らない所へは行けません。公営住宅申込みも落選続きで落ち込んでいます。障害者でも高齢者でも、安心して暮らせる社会を目指して皆で行政に地域社会に要請し、実現すべきです。それがこれからの高齢化社会を住みやすくする第一歩でしょう。
最近マスコミは勿論、被災者以外の人々は震災を忘れてきています。当初のボランテイア精神も薄れ、良くないことがたくさんありすぎます。声を大にしてすべてに訴えていきましょう。被災して味わったあらゆる苦しみは忘れることは出来ませんが、余生の私の持ち時間も「いっぱい」に生きることも大切だと思っています。
最後に私共難聴者のため、ご活躍下さる諸先生