人が3日も1週間も放置されるような事もないと思います。
あの大地震から助かった私達です。自己の命だけとは思えません。天がさずけた命ではないかとさえ思えるのです。不幸にして犠牲となられた方、そのご遺族のお方さま達のご心中を思うと胸痛む思いですが、亡くなられました皆様の分まで、残った私達は命ある限りそれぞれに向いたできるだけの力で、復旧に向けてがんばらねばと思います。行政におかれましても、乏しい財政の中であらゆる施策に頭を痛めておられる事と思います。
色々と不自由はあるものの、今日では、あちこちの更地に新しい家も出来、道路も開通してまいりました。欲をいえば限りはありませんが、地震直後頂いたパンの味を忘れる事なく、私たちは頑張っていきたいと思います。
西脇/上西さん、どうもありがとうございました。
多分お聞きの皆さんも、テレビとか新聞報道などではそうした状況をご覧になったと思いますけれども、生の声でお聞きになって如何でしょうか。やっぱり感じるところが違うと思いますね。本当に生々しい体験をお話頂きました。
今の上西さんのお話の中で印象に残ったのは、聞こえないからこそ話す、そして自分を知ってもらうんだ、というところですね。その部分私はすごく印象に残りました。
後からまた話し合いをしたいと思いますけれども、今の、聞こえないからこそ話すんだ、いう事は非常に印象に残りました。
ありがとうございました。
それではもう一人、具体的な被災をなさいました北村悦子さんに発表して頂きます。
北村悦子さんは西宮にお住まいで、今は甲子園の仮設住宅に入っていらっしゃいます。兵庫県難聴者福祉協会の会員です。
北村さんは35歳の時にストレプトマイシンの薬害で失聴されました、以来ずっと難聴生活を送っておられるわけですが、震災の後避難所にまず行かれました。
それから友人のお宅へ行かれ、それから今仮設住宅に入っていらっしゃいます。転々となさったわけです。
やはり行くところ行くところで、難聴者の持っている特有のストレスを感じられたり、悲しみを味わったりというふうな事をおっしゃています。
北村さんにお話を聞きましたところ、第二次世界大戦中に仁川に住んでいらっしゃって阪神大空襲にも出会われたそうですが、どちらが恐いですか、恐かったですか?とお聞きしましたら、やっばり今度の地震の方が恐かった、というふうにおっしゃっていました。
やはり、人生の非常に大きな衝撃だったというふうに思います。
それでは北村さんにお話を頂きます。
北村/35歳の時、ストマイ注射の後遺症で難聴者になってしまいました。現在甲子園の仮設住宅に住んでいます。以前に住んでいた西宮北口の住居は全壊いたしました。あの恐ろしい阪神大震災から2周年が間近くなってきましたが、今日に至るも複雑な心境からは抜けきれないでいます。
当時避難所になった広田小学校へは、お隣の奥さんと一緒でずっと同じ場所で過ごしておりましたので、その点はよかったのですが、マイクから流される情報が聞き取れません。細かい事を一つ一つ教えて下さいとも言い難く、家族もなく、健常者ばかりの中で一体どうなるのかと不安がつのる毎日でした。避難所の人達は、女だから、高齢者だから、難聴者だからとかばってくれません。皆自分達のことで、精一杯で最低のマナーも守られない毎日でごった返しておりました。食事の配給、救援物資の配給等は張り出されるのを見てなんとか切り抜けましたが、それでも取り残されるのはしばしばでしたが我慢するほかありませんでした。
電話は設置されても役に立たず、後日FAXもつきましたが震災時に電話帳を紛失し、用をなしませんので、毎日配達される新聞を、すみからすみまで目を通して世相の事を知り一喜一憂していました。偶然同じ避難所に私の近くの通院中の指圧の先生がおられ、私を見つけて声をかけてくだ