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揺れ生きた心地もありませんでした。
 長い時間に思えましたが、後で考えるとほんの一瞬だったようです。夜が明けて見てびっくり、箪笥や戸棚が折り重なり、皿、茶碗が粉々で、今更のように地震の激しさに驚きました。余震の繰り返す中、私は先ずガラス破片をかたずけ、昨夕の残りご飯、缶詰等をリュックサックに入れて、貴重品・書類等と共に懐中電灯、着替え等も入れ、入口のドアーを開けました。
 ドアーを開けて見れば、近くの部屋の人達が集まり私の安否を気づかっていたみたいでした。しばらくして御影に住む長男の嫁と孫が迎えに来て、一緒に車で出てみればわが公園の近くはさほどの被害はなかったが、表通りではあちこちで家がつぶれて黒煙があがり赤い炎は天を焦がし、右往左往する人々、呆然とたたずむ老人、泣き叫ぶ幼児、まるで地獄絵を見るようでした。
 誰もが燃える家を遠巻きに見ているだけで、手の出しようももなく、消防車が来ても水が出なかったようです。私が住んでいた田川では、戦時中ですが各家庭の入り口にセメントで大きな水槽を作り常時水を満たしていました。
 地震の時火事にならねば、家は潰れても被害は最小限にくい止められる。あの時水があったならと残念に思えました。私は長男の家が無事だったので避難をし何の不自由も感じなかったが、友人の安否、情報がつかめず息子の家でじっとしておれず、翌日は新開地、湊川と砂ほこりの町を友の姿を求めてさまよいました。
 湊川のAさんの家は跡形もなく、一面焼け野原となりまだブスブスと煙っていました。命だけでもどうかご無事でと祈りました。
 帰り夢野に回り、Bさんも尋ねましたら避難準備中でしたがお互い無事を知りただ嬉しさで胸いっぱいでした。又西宮に住む2,3の友の情報が全くつかめず焦燥の何日かを過ごしましたが、加古川の娘より情報部のあることを知らされ早速尋ね人として連絡をお願いしたところ、翌日の新聞に私の名がのり続々と友の避難先がFAXで送られてきました。
 こんな大惨事下にあってもスピーデイーな報道の素晴らしさ、大切さ、使命感に感激したものでした。震災後は日本の南から北の果てからと援助の車が街にあふれ、人命救出、物資援助と昼夜を分かたぬ働きには感謝感激でありました。特に青年男女のボランテイアの人達の活躍は、目ざましいかぎりでした。
 一週間が過ぎやっと電気がつき私は家に帰りましたが、私の家の近くの人達が「飲み水は配給でどうにか補えるが、風呂に入れずほこりまみれの体が耐えられん」と、嘆く声を私は知り、御影の息子の家より車で嫁に迎えに来てもらい、公団の人達を息子の家の風呂に入っていただきました。ガスが出るまで4,5日置きに近くの人に風呂を提供、車で御影から長田まで、送り迎えしまして感謝されました。
 家に帰っても、電気はついてもガスも出ず、水も十分でなかったが、遠い加古川から尼崎からと、娘達や嫁も水を食料をと再三運んでくれ私は格別不自由を感じなかったが、道路状態が悪いのも省みず尽くしてくれた嫁や娘達に感謝の念でいっばいでした。
 この度の震災で亡くなられた方の中には、高齢者や体の不自由な人も多かったと聞いていますが、考えさせられるのは同じ町内に住んでいても何処にどんな人が住んでいるのか、全く知らなかったと言っていました。これでは助ける手段もないはずです。平素からふれあいが全くない故では?高年者、聴力障害者ともなると、人々との交流を避けがちになるようですが悪いことをして聞こえなくなったのではありません。自己の殼にこもらず、多くの人と積極的に交わるべきと思います。  ある時、私はこんな事を言われたことがありました。「あのひとは(私のこと)耳が聞こえんくせによくしゃべる」…と、私はそれで言いました。聞こえんくせにしゃべるのではありません。聞こえないからこそしゃべります。聞こえない者が話もしなかったら何を以て自分を知ってもらえるでしょうか?
 人間生活は、人と人とのふれあいで始まります。ふれあいは話からで、ふれあいがまた愛をはぐくむものです。万一の時ふれあいがあれば、孤独な

 

 

 

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