この資料集にも書いたのですが、震災の時には電話が通じません、ファックスも通じません。日頃頼りにしている通信機能が全くマヒをしまして、そのおかげでいろんな余分な心配も致しました。それは全く皆さんと一緒なんです。
日頃は私どもは電話が使える、テレビでも音声と画と両方使って情報を得る事が出来るというふうな事で、それがごく当たり前だと思っていたわけです。ところが震災の時にはそうはいきませんでした。
耳は聞こえても情報が入ってこない状態がずっと続きました。
そういう事を、実は難聴の友達に話をしましたら、それが難聴障害というもんやで、と言われたんですね。なるほどと、はっと思い当たりましてね。なるほどなるほど、自分はいつもごく当たり前のように使っている通信機能が、そういうものが全く損なわれてしまった、役にたたない。いくら聞こえる耳をもっていても、電話が不通ではこれは使えないわけですからね。それは難聴の皆さんの毎日毎日、日常であるという事に気がついたんですね。あ、これは本当に不便な事だと思いました。
そういうふうに自分で体験しても直接当事者から言われない事には、なかなか気がつかないのは、なんか悲しいですね。私も本当言われてから気がついて、本当に、はっとしました。
やっばり良い事言ってくれたな、と僕思っています。その友達に今感謝してますけれども、もし彼がそういうふうに言ってくれなければ、僕は難聴というものが本当にね、只聞こえない、聞こえが悪いと言うだけで終わっていたというふうに思います。
そんなわけで今日皆さんとこういうお話が出来るのを、僕は非常に嬉しく思っています。
時間もそんなにありませんので、順次ご発言を頂こうと思います。
では最初にご発言を頂きますのは、上西日出子さんです。
上西さんは神戸にお住まいでして、神戸市難聴協会の会員です。資料の14ぺ一ジをどうぞご覧下さい。
上西さんは第二次世界大戦中に、20歳の時に出産をされまして、その後いろんなストレスで難聴になられたわけです。
戦時中のね、本当に物資の乏しい中での出産、子育てという事ですから、本当にストレスが大きかったんだろうと思いますね。神戸の兵庫区にいらっしゃる時に被災をされて、一時ご子息のところへ避難をされましてその後、また自宅にお戻りになりました。
帰宅されてからご自分の家の近くの公園で避難をしている人達に、ご自分の長男のお宅のお風呂を開放して、車で送迎をして入浴してもらう、そういう活動をなさいました。
まさに被災者の心を知った救援だったというふうに、私は思います。
上西さんは社会的な出来事に非常に関心が強くってご自分の意見をよく新聞に投書なさっています。何回も新聞で拝見をしてるんですけれども、いつも、うん、そうそう、とうなづきながら読むのです。今日はその投書にかえて、ご自分の声で震災の時の問題点をアピールをして頂くと思います。
それでは上西さん、よろしくお願いします。
上西/平成7年1月17日午前5時46分の大地震から2年近くがたとうとしています。今思い出しても、怖く身震いがします。私は目が覚めたばかりで立ち上がった瞬間、畳が大きく揺れた。ハッ!と思ったとたん私は又寝床に飛び込み布団を頭からかぶり息をころした。荒波に揺れる船の様に右に左にと大きく揺れ、上に下にもガタガタと