放置されたが、湛水が始まってから14年経過した現在、見事な景観の湿地ビオトープとなっている。
また、木曾川下流右岸の背割堤のおよそ15〜25km地点の区間には、明治年間(完成は1911年)に設けられたケレップ水制群の間に自然に砂が堆積して形成された、抽水植物群落、水辺材、ワンド、干潟、サイドプールなど多様な生息場所を含む河畔環境がある。
この水制群の建設は、いうまでもなくビオトープの創出を意識しておこなわれたものではないが、長い年月の間にそのまわりに形成されたこのような河畔環境は、まさに人工の構造物と河のはたらきによってつくられた大規模なビオトープである。これも、どちらかといえば第3の類型に属するタイプで、大河川における多自然型川づくりの一つの方向を示唆している。
4)“あとは野となれ山となれ”型(自然過程委任型)
最近、各地の山間の農村を歩くと、悲しいことに、耕すことをやめてしまった水田や畠があちこちに見られる。このような農地、特に年中湧き水がしみ出している谷地の田園などには、水たまりのまわりにイグサ・スゲ類などの群落が一面に生え、ヨシやガマが侵入し、ヤナギが生えたりして、昔の谷地の環境が次第に回復しつつある状態が観察される。このような場所では、昔その地域にすんでいて近年姿を消してしまったトンボ、ホタル、カエル、サンショウウオなどの仲間が、再び生息するようになる場合が多い。
このような経過は、野生生物の生息環境の復元というような意志とは全く関係がないことで、かつて人間が開発や開拓によって野生生物から奪った土地が、“あとは野となれ山となれ”とは思わないにしても、そのまま放置され、自然に昔の姿に戻っていくだけのことである。しかし、これまで耕地であった場所が野となり山になることは、人間の所業としては歓迎されないが、野生生物にとってはまことに好都合なことで、このようにして形成される生息環境では、人間の勝手な思い入れでつくるビオトープよりは、かえってその場にふさわしい生息環境と野生生物群集との関係が成り立つのかも知れない。
放棄された農地ならずとも、大都会の真中でこのような過程でよみがえった自然環境がある。それは、東京都荒川区の隅田川の川岸にある旭電化尾久工場の跡地で、1976年に工場が閉鎖され、重金属による汚染土壌などが処分されたあと放置されていた荒れ地に、もともとこの土地に生育していた植生やトンボ、野鳥などの生息環境が自然に回復したのである。現在この土地は東京都に買い取られて、都立の「尾久(おぐ)の原公園」として整備がすすめられているが、この跡地の自然回復の過程については、早くからこの場所の生息環境と生物に着目して、根気よい調査や保護活動を続けてきた野村圭佑氏の著書がある。この本の内容は、ビオトープづくりにとってもたいへん示唆に富んでいる。