よる圧力がどれほど高まっていたかは、この「釜」が空けられて、東西対立という「縛り」がとけたとき、初めて極めて劇的な形で明らかになることとなった。私たちは大きな対立関係がなくなっても決して平和や民主主義がそのまま広まるのではないということを、すぐに痛みを伴った形で学ばなくてはならなかった。むしろ逆である。東ヨーロッパにおける国家内秩序の崩壊、また西側におけるそれぞれの国家の中での、これまで明らかでなかったさまざまな利害関係の対立こそは、冷戦後の帰結だったのである。確かに冷戦は幸い一度として「熱い戦い」に至ることはなかったものの、東西両サイドにおいて大きな経済コストをひきおこしてしまっており、その返済にはまだ当分かかることであろう。
個々の国家の新しい役割や新しい世界秩序を求める要求というものが登場してきた。しかしそれは、これまで各国を拘束してきた冷戦時代の「縛り」を、新しい目標や秩序に向けて新たに共通に義務づけることによって置き換えようとする、かなり単純な試みに過ぎないように思われる。ここでとりわけ注目に値するのは、新しい役割規定を必要とする意識が、よりによってドイツと日本という両国において、特有な仕方で集中的にあらわれているように思われる点である。アメリカも、また現在ほとんど当事者能力を失ってしまったロシアも、はたまた私たちにとっての大きな疑問符たる中国も、これほどはっきりと、自らの「新しい」役割規定を求める動きや試みを示してはいない。(また、他のあらゆる国々からの期待もまたドイツと日本に集中している。)こうした事態こそは、私たちが今日こうして会議に集っている最も正当な理由の一つであるが、なぜこうした情況に至っているのかは、説明を要する。ここで名前の挙がった他の諸国、とりわけアメリカもまた、自らの役割に関する議論はさまざまに行なってきている。しかしこれらの国の場合、むしろそうした議論は、彼らが冷戦時代に既に演じてきた役割を今後に救い出そうとする試みなのであって、彼らは、今後はもはやこれまでのようにはそうした役割が認めてもらえないのではないかと危倶しているわけなのである。
独日両国が組み入れられている国際的枠組みには変化はなかった。にもかかわらずこうした役割に関する議論が登場しているのは、明らかに国益(国としての利害関心)をめぐる議論と関連している。もしドイツが新たな役割を必要とし、また演じなくてはならないとするならば、いったいドイツのような国にとってどのような別の新しい国益というものが存在するのかが問われなければならない。たしかに、もはや二つのドイツ国家は存在していないという事実は、この問いを立てるにふさわしい理由となっている。というのも、「新しい」ドイツの「新しい」国益というものが、過去の二つのドイツ国家の国益を単純に足し算して生まれたものでないことだけは明らかだからである。ドイツ再統一というものが憲法に規定された国益であった以上、統一が実現した今、いったい今何がドイツの国益なのかという問いが生ずるのは当然である。