エリツィン大統領による、当時あれほど希望に満ちた民主主義への出発と、1993年12月の新憲法に基づく第1回の自由選挙を経て、ロシアは速やかに民主主義国家へと生まれ変わるかに見えた。ロシア国会ドゥマでは、当時のガイダル首相及び経済学者ヤヴリンスキを中心に、若い民主主義者が最大の会派を形成していた。しかし、現実は間もなく民主ロシアのヴィジョンの足を引っ張ってしまった。経済面で必要とされた大胆な改革には、早い時点でブレーキがかけられ、ガイダル首相は解任、チェルノムイルディンが後継の首相となった。極端なインフレは落ち着き、経済の改革路線もゆっくりと進められたが、ロシア経済は現時点でも景気浮揚への明らかな兆しを示すに到っていない。確かに異常なインフレは押えられ、ささやかではあるが国外からの投資も徐々に増えてきたが、ロシア国民の生活水準の向上には効果を現わしてはいない。
今日、ロシア国民の40%ほどが通常の限界以下の貧しい生活を送っており、さらにその他の国民の40%が購買力の極めて弱い層と言える。民主主義へ向けた出発はロシア国民に、現在に至るまで期待されたような生活の改善をもたらしてはいない。
こうした現実は、今後のロシアの民主化にとって大きな脅威である。というのも、経済的に強いられて日々の行動が決定されるような時には、デマゴギーが(再び)息を吹き返すからで、このことは20世紀の全体主義が我々に教えるところである。
早い時点で、期待を持たせてくれると同時に実験的でもあったガイダル首相の経済改革路線にブレーキがかけられたことで、権威主義的な方向へ大統領機関の権力が増大した。
ロシアはソ連帝国の崩壊を恥辱と感じるようになっており、政治的には極左と極右、つまりジュガノフ率いる共産主義者とジリノフスキー率いる自由民主主義者等が、民主改革者とエリツィン大統領に対する攻撃へと人々を鼓舞した。さらに、経済改革で成果が上がらなかったことで、国民一般の民主改革派に対する批判も強まった。
1994年末エリツィン大統領は、助言者の勧めによりチェチェンにおける冒険的な戦争へと突進した。これはチェチェン国民に対する残虐なロシア軍出兵であった。「国家的見地」からロシア連邦は力ずくでも統一を維持しなければならなかったのであり、ソ連帝国の崩壊の後に、同じようにロシア連邦の崩壊が続いてはならなかったのである。連邦主義モデルによる問題解決は、モスクワの政治指導部にとって依然として馴染めないものであった。自国内の戦争とそれに伴う基本的人権の無視、そして権威主義への逆行は、1995年、ロシア指導部が民主化への道に一層明確に背を向けたことを示していた。
1995年12月、エリツィン大統領が約束どおりに第2回目の選挙を行ったことで、ようやく、大統領が自ら作った憲法と公約を守ろうと考えていることが分かった。第1回目の国会選挙の2年後に第2回目を行うことは、1993年、ロシアの選挙民に例外規定として約束されたものである。このことは、民主化を危ぶみ、失望した人々に対して、民主主義へ