失業問題と社会福祉国家再編
失業問題の大部分が構造的に生じているという状況は、新連邦州に限ったことではない。ドイツ経済はこれまで、構造変化プロセスの中で、減少する雇用にまさる新たな持統的・雇用を新たに創出することができないまま今日に至ってしまった。素早い対応を阻害してきた弊害は、一部は国(連邦政府)の経済政策上の対応のまずさに起因する。連邦政府は労働市場の柔軟さに(それなりの理由と善き意図を持って)制約を加えてきた。また市場価格メカニズムを補助金支給によって破壊し、それ以外にも多くの誤った秩序政策を犯し続けてきた。ドイツの社会総生産のおよそ50%は今日国によって分配され、あるいは公的サービスによって支給されている。国家の占める役割は、たしかにドイツ統一実現に伴って近年不可避的に大きくなってしまったのでもあるが、こうした状況は個人のイニシアティヴの活動領域を狭め、長期的に経済ダイナミズムを萎縮させ、企業や被雇用者の意欲をそいでしまうことになる。ドイツの経済システムに対しては(脱)中心的な官僚経済といった呼ばれ方がされることもある。国家の関与率を低下させ、歳出原則を厳格なものとすることこそは、将来の政策目標でなくてはならない。
雇用を増やす特効薬というものはない。小さな一歩を重ねる労多き道しかないのである。とりわけ政治だけでは失業問題を解決することはできない。持統的な雇用というものは、国がそれを用意すれば自ずと生ずるようなものではないのだ。そのようなことを国に期待する者は、過去の過ちを繰り返すことになる。社会的市場経済における国家の果たす役割とは、その経済政策を通じてよりよい経済的発展のための必要な枠組み条件を作りだし、必要な所で補助的な機能を果たすことだけなのである。「国は馬を水辺へ連れてゆくことはできる。しかし、水は馬が自分で飲まなければならないのだ。」産業立地の危機は社会福祉国家の危機である。
こうした現在のドイツ経済が直面している雇用の危機は、世界市場における変貌した競争状況の当然の帰結なのであろうか。それはそのひとつの帰結ではあるかも知れないが、必然的帰結であるとは決して言えないだろう。なぜなら、たとえばイギリスやアメリカ、そして日本といった国々は、こうした進展に対し、ずっと僅かな雇用削減だけで切り抜けてきているからである。決してドイツにアメリカ的状況を呼び出したいというわけではないのだが、われわれはこれまでドイツ連邦共和国において自分の宿題をきちんとこなしてこなかったと言うことができるだろう。一つには、社会的市場経済の原則をゆるめ、国による規制をふやすことで市場経済的な協調メカニズムをどんどん損なってきてしまった。また今一つには、私たちは、ますます狭くなる一方の分配可能領域の中に経済と社会政策と政治が適応せねばならないということに気づくのが遅すぎたのだった。ドイツ経済は目下、産業立地の危機のまっただなかにあるが、これは社会福祉国家の危機でもあるのである。
経済の奇跡といわれた(1950年代の)時期以来の社会政策がかかえる課題の推移とコストの推移を一瞥すれば、現在の社会福祉国家ドイツの悲惨さが残酷なほどにはっきりと浮