展開したのかについては、ワシントン軍縮条約の影響が考えられる。
ワシントン軍縮会議は大正10(1921)年11月12日から同11年2月6日の間に開かれ、第1回総会で米国全権ヒューズは建造中の主力の廃棄や海軍比率の制限を提案した。この軍縮交渉は関東大震災の2週間前の大正12(1923)年8月17日に公布されることになる。
一方、舞鶴鎮守府が廃止されたのはワシントン条約の影響を受け、大正12(1923)年3月26日に舞鶴・鎮海両軍港を要港として5海軍区を3海軍区に縮小し、舞鶴海軍工廠は工作部に再編成された。また、海軍機関学校を江田島から舞鶴に移設したのは大正14(1925)年といわれている。
ところで、真島博士の柔構造理論に関する最初の論文12)が発表されたのは大正13年2月であったことから、一般に博士の柔構造理論は関東大震災の被害を教訓に着想されたとされているが、筆者には信じがたい。これは、関東大震災では築地海軍大学校を始め、築地海軍倉庫(舞鶴魚形水雷庫と同様の鉄骨煉瓦造が火害を受けた)、平塚の海軍火薬廠、深川航空研究所など多数の施設も甚大な被害を受けたが、大正12年9月の震災後、被害調査と復旧の激務をこなしつつ、これほど高度な理論を構築し、大正13年2月の土木学会に最初の論文を掲載するのは常識的には不可能である。筆者は寧ろ海軍関係工事のために震災以前既に理論と実務設計に必要な数値計算表などが既に完成していたと考えたほうが妥当である。
恐らく大正11年頃に、ワシントン軍縮協定によって、舞鶴鎮守府が要港に縮小されるのに伴って、機関学校を呉から移転するという海軍の方針がたてられ、このため建造中止となった呉の艦艇用鋼材(官給鋼材)を利用して舞鶴の機関学校を鉄骨耐震建築で設計することになり、海軍建築局長(海軍建築の最高位、勅任官)真島博士が世界初の動的設計理諭を震災前既に完成させていたことが考えられる。
これを支持するものとして、真島博士の文献には”災前全く不用意であった著者が、茲数年本題について非才を頑みす、聊か微カを尽くし来たれるは、実は当初専ら自家の用に供せんが為に先賢の著書を渉って未だ理論的拠るべきものを見出し得す不安に堪えなかったからである。爾来多少研究したものは土木学会誌或いは建築学会誌を通じて、先ず汎く諸賢に諮り教えを乞うたのである。・・・これ皆本問題の健全なる解決を促進し、延いては自家関係工事の上にも早く若干の自信を得たい希望に過ぎなかったのである。”
とあることから、柔構造の数学理論は関東大震災の前既に自前の建設工事の為に独自に考案されていたが、関東大震災を契機に博士の理論を世に問うために一斉に発表された経緯が推定される。震災後の博士の活発な活動は、柔構造建築のモデルとなった鉄骨建築が震災を受けなかったという事実の裏付けの下で、本来ならば機密に属してもよいような高度な理論を、敢えてわが国の耐震建築の将来のために続々と発表していったと思われてならない。
もう一つの疑問一何故当時の帝国海軍が全く新しい耐震設計理論を開発してまで、海軍施設の耐震化に取り組んだのかということである。これには真島博士という天才的な建築局長の存在と資質があるが、更には海軍上層部の地震に対する重大な危機管理の認識があったことが考えられる。
思い出されるのは明治帝国海軍は一度、地震の大被害を経験していることである。すなわち、明治38(1905)年5月27、28日の目本海海戦での連合艦隊の勝利から5日後の6月2日、安芸灘を震源とするM7.1の芸予地震が突如発生し、凱旋した