“・・・煉瓦壁の如くきは多くの場合薄くしたほう方がよいと思ふ、厚一枚位の煉瓦壁であれば、可なり大きな歪曲にも堪へられる。・・・煉瓦を鉄骨で挿んだり、 鐵筋を加ふれば可なり可撓性に富んだ壁となり、且つ施工が楽で、耐火的で、修理が可能であるから、一概に棄てたものではない、・・・架構構造で抑も正体の判らぬ壁の力を頼みとするが如きは剣呑と云はねばならぬ、帳壁は仕切りの用をなせばよい、余計な金をかけて無闇に厚いものを付ける必要はない・・・”
ここには、現在の鉄骨超高層建築のカーテンウォールの考え方と全く同じ発想が述べられている。博士が大正時代既に高層建築の一般解法を求めていたこととも考え合わせると、戦後実用化される鉄骨高層ビルと同じ構法の鉄骨高層架構が構想されていたことを示唆している。
?真島理論の成立について
●柔構造理論の背景
さて、ここで前述の柔剛論争について若干解説する。
わが国初の全国的な建築規則として市街地建築物法(物法)が大正8年に公布されたが、この中には耐震設計に関する規定はなかった。しかしながら、大正12年の関東大震災の大規模な都市災害に直面して翌年に物法が改正され、この中に『震度法』に基づく耐震規定が初めて盛り込まれた。この法令は『震度法』すなわち「剛構造」理論一地震に抵抗するために建物を剛強に造ることを基本とするもので、主として鉄筋コンクリートや鉄骨鉄筋コンクリート構造により耐震壁の多い架構を造るべきであるとする立場で、高さは10階一100尺を限度として高層建築は日本では実現できないとの基本的認識があった。
しかしながら、関東大震災の直後からこのような建築界の考え方とは全く異なる「柔構造」の考え方を提唱したのが、当時海軍省建築局長真島健三郎博士であった。博士の研究論文は、土木出身であったためか、建築学会ではなく土木学会誌で発表されていたが、大正15年10月の「耐震構造問題に就いて」と題する講演が昭和2年(1927)年10月の建築雑誌に掲載され、これが当時の構造界の権威・東京大学教授佐野利器博士やその門下生の「剛構造」理論派との間で、所謂「柔剛」論争を引き起こした。この論争は議論が充分に噛み合わないまま昭和6,7年頃には終息したかにみえたが(第1次柔剛論争)、昭和10年に京都大学の棚橋諒博士(1907−1974)が真島博士の『柔構造理論』を発展させた新しい耐震設計理論を提唱し、これが第2次柔剛論争へと発展した。
詳しい内容は省略するが、現在「柔構造理論」とは地震動を柳に風と受け流す設計一わが国の五重塔に着想を得たやり方などかなり観念的に理解されているが、実体は先に述べたように高度な数学手法に裏付けられた純工学理論であった。
真島博士は当時の主流であった剛構造一即ち地震動という本来動的な現象を震度法という静的な水平外力に置き換えて設計する立場ではなく、動的応答解析の手法を始めて建築耐震設計の分野に導入することにより、より合理的な耐震建築を実現しようとしたもので、剛構造では前述のようにRC造やSRC造など重量の大きな低層の剛強な躯体設計を行うのに対し、真島博士の柔構造は粘りが大きく且つ軽量な鉄骨構造(S造)を基本とした。次の時代に棚橋博士は真島理論を更に発展させて架構の塑性化によるエネルギー吸収(終局耐震設計法)の手法を導入することにより、今日見るような摩天楼(超高層)建築を地震国巳本でも実現できることを論証していく端緒を与えた。
●ワシントン条約と機関学校
さて、真島博士がいつ頃から「柔構造理論」を