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(8)神崎ホフマン式輪窯
 平成2年7月、一級河川由良川河口の西神崎の神崎コンクリート(株)工場内に保存されていた窯がホフマン式輪窯であることが新たに確認された。
 明治20年代以降、赤煉瓦の大量生産の主役をなした連続焼成可能なホフマン式輪窯は、昭和30年には全国で57基を数え、その月間焼出能力は2167万個を誇った。しかし、それ以後現在の赤煉瓦製造の主流をなしているトンネル窯が普及し、次々とその姿を消し、今日我が国で4基のホフマン窯を確認するのみで、稼働中のものはない。
 当地における煉瓦焼成は、明治30年(1896)9月に京都深草在住の山田宗三郎が舞鶴軍港建設に必要な倉庫用煉瓦製造のため、京都府竹村丹後製窯所を興し、当初登り窯を築造したのが始まりである。当時製品は、船で舞鶴湾まで運ばれ海軍に納入された。
 赤煉瓦の原土は、由良川筋の三日市・上東・下東・水間・蒲江・油江などから伝馬船よりわずか大きいトモウチ10艘程が毎日数回運んだといわれている。工場で働く人は、いずれも他所の人たちばかりで、最高百人余りもいたそうである。この登り窯は、1回焼く度に火を消さねばならないので、大正の末期頃、約24mの主煙突と窯を輪窯の一部分に再利用し、ホフマン式輪窯に改良された。長径45m、短径9mの楕円形輪窯で、主煙突の他に各焼成室ごとに小型煙突(10本)を保有し、内部は高さ1.8m、幅2.8mのアーチ状のヴォールート(トンネル)となっている。
 昭和20年代になり、煉瓦の需要も減少し原土も底をつき、同33年頃煉瓦の製造は中止のやむなきに至った。
 神崎ホフマン式輪窯の西側にある港十二社の境内には、煉瓦造の手洗所がある。神崎煉瓦工場の創設者が奉納したもので、井戸を囲む三面が煉瓦造、また、屋根部分は目本風の瓦葺き。柱や角は丸く加工した煉瓦を使用しているほか、壁部分には透かしを設けるなど所々に意匠を凝らしている。
 井戸の内側面の御影石には、次のような内容が彫られており、煉瓦工場が、京部出身の三人による共同経宮であったことを示している。
 「奉納井戸口館 明治三十年初春 本村小字水戸崎ニ於イテ製窯所創設記念 明治三十六年十月 京都新町五条 竹村藤兵衛 薩摩治兵衛 京都深草 山田宗三郎」
 また、神崎の永春寺本堂正面入口沓脱ぎ段は、工場長山田宗三郎の墓石を煉瓦で造った際、残った煉瓦を使用したものであり、千歳の油倉庫、吉田の嵯峨根重蔵邸の蔵も神崎産の煉瓦を使用している。

 

 

 

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