(6)陸軍要塞施設
日清戦争以後、日露の対戦は必至と見て海岸防備を急いでいた。明治30年(1896)3月、舞鶴軍港の着工と年を同じくして、陸軍も同年11月に舞鶴要塞砲兵大隊の開設と葦谷砲台の起工を行った。続いて浦入り、金ヶ岬、槙山の各砲台、建部山、吉坂両保塁の設置に着手、同36年10月全工事を完成した。
舞鶴湾の東岸に葦谷、浦入各砲台と吉坂保塁、博打岬電灯、下安久弾丸本庫を、湾の西側に金ヶ岬、槙山各砲台、建部山保塁白杉弾丸本庫などを配置した。その後、昭和9年要塞整備要領により、金ヶ岬を撤去し、同年前進砲台として荒井崎および成生岬砲台を設置している。
海軍の軍港施設を守るという性格上、湾口の岬、市内への進入路を見下ろす山の頂上に築かれており、戦後長い間放置されたまま当時の姿を留めている。
これらの砲台には、荒井崎、成生岬砲台は未調査のために不明であるが、吉坂保塁を除く各砲台には、砲側庫面壁等に煉瓦が使用されているほか、匂ヶ崎演習砲台、下安久弾丸本庫跡に煉瓦遺構が残っている。
また、舞鶴要塞砲兵大隊は開設当初市内倉谷の東山寺で事務を開始したが、明治31年11月に市内一上安久(現日星高等学校)に移転し、同40年10月に隊名を舞鶴重砲兵大隊と改称した。その後昭和11年5月舞鶴重砲兵連隊に昇格、ついで平時編成改定により、同15年8月、中部軍が創設され、その直轄となり中部第71部隊と称した。戦後は、その部隊敷地の多くを目星高等学校が使用しており、当時の正門、西門、倉庫等の煉瓦建造物は現在も使用されている。