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元々喋りやすい言語的構造(長音が多い)になっているのも一因ではないだろうか?言語的構造が全く異なる、日本の口話法教育と単純比較はできないと思う。話をそらすが、手話通訳のできる聴者は少ないと聞いた。それは私の推測だが、発声のできるろう者が多くいるためにかえって手話を必要としている考え方が少なく、聴者へ手話の普及の妨げになったのではないだろうか?国の教育方針とはいえ、手話をろう者の言語として尊重し、ろう者としてろう者らしく育てるような教育はできないものだろうか?オーストリアやハンガリーのろう学校はドイツと違って手話と口話を併用した教育を行なっていた。この中にろう者の先生がいたが彼らは補聴器を装着していなかった。聴覚活用の教育よりも視覚活用の教育の方が生徒達の表情は生き生きしていたので最も印象的だった。

職業面では、第2次産業が多く、ほとんど手仕事中心。(大工、縫製、塗装など)オーストリアでは公務員の方が多い。障害者法定雇用率では4%という突出ぶりに驚いた。日本の場合は1.6%とお寒い現状である。しかし職業選択の幅の広さでは医者や薬剤師など法律面で禁じられている所があるけれど、日本の方が進んでいるような印象を受けた。オーストリアの社会省訪問の際、ウィーン市内のPRビデオ放映があって、このビデオは編集、作成は聴者だが、出演した女性はろう者だった。内容を見て、構成やストーリー等はよくまとまっており、とても素晴らしかった。このビデオ、欲しかったなあ。

各国のろう者と交流会では、欧州派遣の前、私は国際手話やASL(アメリカン・サイン・ランゲージの略)の知識をほんの少しだけ持っていたので足りない部分はなんとか身振りや表情で表わせば通じるだろうと思っていたがそれは甘かった。せっかくろう者の会と交流会がいくつかあったのに教育、文化、法律、歴史など直接伺う事があまりできなかった。お互いの国の手話で話を理解するのに必死で、そんなことをするどころではなかった。残念だった。しかし唯一、聞く事ができたのは第2次世界大戦の体験話だった。戦時中、ろう者達は兵士に適しなかったのでいつも地下室や穴で身を隠したりする生活が毎日だった事、言葉は通じなくても皆、お互いに助け合ってくれた事、食料面では赤十字の人に配給してくれたりした事など。他に団員から聞いた話だが、ドイツでは戦時中、ドイツのろう者(男性)は子供を生まないようにするために精子が通る管(精管)を切断された、という事。近くの国々も同様らしいとの事。ヒトラーの『アーリア人優越人種論』のためにろう者達まで残酷扱いにするなんてー。交流会の中で一番嬉しかったのはドイツ人ろう者と友達になり、彼は来年(97年)の年末年始に日本へ来日すると約束した事だ。来日したらぜひ日本の文化や名所を紹介してあげたい。その意味ではじめて「国際交流」という目的が達成するのだと思う。一方的な訪問、交流だけでは中途半端な気がしてならない。お互いに訪問、交流し合ってこそ、本当の目的だと思う。

これまで要約して書いたが、欧州に派遣して特に印象を受けた事はろう教育では口話法が中心だった事、文化・環境面では古城、宮殿、教会など歴史的な建築物を後世に残すために経済的活動を多少犠牲にしても大事にしようという意気込みがすごいという事、交流会ではろう者達はすでに国際感覚を身につけているせいか、誰でも明るく、気楽に話し合えるという雰囲気が感じられた事であった。

長くて短かったような15日間だったけれど、毎日充実な日々を過ごし、まるで中世の街並みの空を飛んでいるような、不思議な体験の連続だった。ハイデルベルク城、ベルヴェデーレ宮殿、聖シュテファン寺院、英雄の広場、凱旋門など歴史的な建築物、雨で濡れた石畳の道、特に絵模様や彫刻の技術が大変素晴らしく、美しさに立ちすくむ位見とれてしまった。日本へ無事帰国した時、再び人々の頭が黒髪の一面で、なんか現実に引き戻されたようで、思わず涙がこぼれてしまった…。

今後の課題は、やっぱり国際手話とASLの習

 

 

 

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