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静岡県モーターボート競走会設立
 昭和二十六年の初め静岡県では県知事選挙が行なわれ、政界の有力者の静岡市への往来が頻繁であった。
 当時、中央政界でモーターボート競走法案の制定に尽力していた神田博代議士(静岡県一区)畠山鶴吉代議士(静岡県二区)等が静岡市の観光会館で顔を合わせた席上、静岡県モーターボート競走会を設立することが話題となり、神田代議士を準備委員長として早速準備にかかることとなった。
 この静岡観光会館での話がまとまると、これに一番力を注いだのは、早くからモーターボートレース実現の準備をしていた熱海市の人々であった。
 モーターボート競走法が昭和二十六年六月十八日、第十国会を通過成立すると、直ちに六月二十一日に準備委員長神田博氏の名をもって創立総会が静岡市観光会館に招集され、二十五名出席のもとに定款の承認、役員の選任等が行なわれたのである。
定款―略―
役員 会長   神田 博
副会長  山田弥一
同    小野近義
同    植田明八
事務局長 対木公昭
理事 山田弥一 青木良平 小倉光次
  一藤木幸一 対木公昭 勝亦干城
  須田桂市 中村達一郎 芝野清一
  小野近義 阿部芳三 植田明八
  神田 博 中村清次郎 堀江清一
監事 岩本虎吉 竹村啓太郎 長友喜作
 専務理事、及び常務理事は競走場がどこに設置されるか決定するまで保留とする。
 しかし、加入金を納入した会員は一〇名内外であり、実体を伴わなかったが、一応事務所を熱海市熱海一九九二番地に置き、対木事務局長は諸般の手続きを進めていくことになった。この頃、清水市でも静岡県モーターボート競走会を設立しようとする運動が起きていた。
 第十国会でモーターボート競走法が通過成立する気運をいち早く知った参議院議員、長嶋銀蔵氏を始め大石勇、白鳥茂作、田中太次郎、川井健太郎の諸氏はモーターボートレースの実施を計画し、第一着手として競走会設立申請書を県に提出、ついで名古屋海運局に出向いた際、神田博氏を会長とする静岡県モーターボート競走会の設立申請計画のあることを知り、即刻申請書類を提出したので神田氏の競走会設立申請より一足早く申請書が提出されたのである。
 このようにして県内に二つの競走会が名のりをあげたのである。
 しかし、清水市は市の財政が比較的裕福であり、市長もそれほど乗り気ではなかったので、一県一競走会という法律の精神に従い、大局的立場から譲歩し、十月五日神田氏と長嶋氏が運輸大臣室で会見し、熱海競走会と清水競走会は円満に手をにぎり、昭和二十六年十月五日静岡県モーターボート競走会として認可されたのである。
 競走会は十五日には理事会を開催し、事務所を熱海市に設置することを確認し、熱海競艇開催を昭和二十七年三月一日を目標として準備を進めたのであるが、熱海は大火後の情勢の変化や更に波浪、水深の両面からもモーターボートレースには不適であるという海運局の意見もあり、実現不可能となり昭和二十六年十二月七日大月ホテルにおいて理事会を開催したのを最後に競走会の活動も一時休止状態となった。翌二十七年には事務所も熱海から清水へ移され大石勇氏のもとで事務が執られたが名目だけのものであった。
 一方、昭和二十七年七月二十九日、新居町から舞阪町へ競艇事業の共同経営の申入れをし、舞阪町がこれを受入れると共に競艇実施の動きがにわかに活発化しその実現へ強力に動いていたのであるが、同年八月十一日小池節郎氏が運輸省船舶局で全国モーターボート競走会連合会の菊地氏と面接した折、県競走会の負担金が連合会に納入されていない事を知らされ、またレース場設立は原則として県一ヵ所であるが、静岡県の場合は二ヵ所の許可の可能性もあるから熱海市と連絡の上、至急に設立申請書を提出するようにとの話であった。
 そこで小池氏は、八月十五日熱海に立寄ったが、事務所も既に清水に移されており、また神田、山田、長嶋三氏の間の意見が完全に一致せず競走会がすっきりしていないように見受けられたので、三氏の会談によって至急局面を打開するよう要望して帰った。
 昭和二十七年九月十八日発足した浜名湖モーターボート競走会設立準備委員会は、諸般の手続き関係書類を関係官庁に提出し、いよいよ競走場設立に全力を注ぐ段階に至ったのである。
 一方内部不統一を続けていた静岡県モーターボート競走会は同年十二月二十二日、衆議院議員会館において神田、山田、長嶋三氏会談によって完全に意見の一致を見、静岡県モーターボート競走会事務所を一時舞阪町役場内に移すことも決定した。また、会員の納入する加入金百万円の内、四十二万円が集まったのみであり、その内既に二十二万円が費消されていることも明らかになったので、清水地区で二十万円、西部地区で二十万円を更に募集することに決定した。
 その後、西部地区の割当は新居町で七万円、舞阪町で六万円、雄踏町で七万円と決めた。
 昭和二十八年二月二日、競走会事務所を新居町に移すことと決定、同時に県競走会の責任者を小池節郎氏に決定したのである。ここに、浜名湖モーターボート競走会設立準備委員会(浜名湖競艇企業団の前身)の副委員長として浜名湖競艇実現に専念して来た小池氏は、静岡県モーターボート競走会の活動をも一任されたので、浜名湖競艇実現の全責任を負わされたかたちとなり、一人二役の奮闘を開始することとなった。
 一方、競艇場設立にあらゆる努力を続けて来た浜名湖モーターボート競走会設立準備委員会は同年三月二十七日をもって解散し、以後は地方自治法に準拠した浜名湖競艇組合(浜名湖競艇企業団の前身)によって運営されることとなり、昭和二十八年八月に第一回ボートレースを開催することを目標として準備は進められていった。
 浜名湖競艇組合が八月開催の準備を進めるにつれ、組合から委任を受けレース実施を担当する県競走会も陣容を整備する必要に迫られ、第一回定期総会を舞阪町弁天島、茗荷屋旅館で開催し、新役員を次のように決定した。
◎役員氏名
会長  神田 博
副会長 山田弥一
〃  阿部芳三
〃  小野近義
理事  小池節郎
(常務理事代行)
理事  神田 博 山田弥一 阿部芳三
 小野近義 対木公昭 小倉光次
 大石 勇 一藤木幸一 須田桂一
 田中太次郎 服部 茂 中村清次郎
 小池節郎 中村達一郎 中村初治郎
監事  岩本虎吉 芝野清一 堀江清一
顧問  長嶋銀蔵
相談役 中村幸八 小松勇次
 事務所を新居町に移転し、その運営を一任された小池常務理事代行は鈴木好男氏(現理事、競技部長)を総務経理担当、石川喜代松氏(現理事、総務部長)を実務担当に任命し八月開催に備えた。
 当時の事務所は、新居町役場内の公民館の付属建物で、保育園の仮眠所に使用していた十畳位の部屋を借用したもので、昭和二十八年五月十八日小池常務代行、鈴木、石川の三氏は十時三十分からカツ丼一杯でささやかな事務所開きを行なったのである。
 
(初開催)
 昭和二十八年八月七日朝、いたる所にまだ大工の入っている中で、連合会、運輸省のレース場検査が行なわれ、数えきれないほどの整備改善の条件をつけられた上、漸くレース開催が許可された。
 午前九時、南側スタンド前で多数の来賓を迎え、観客注視の中で盛大な開場式が行なわれた。関係者一同はこの一瞬を迎え感慨無量のものがあった。
 やがて、一レースが開始され、大部分の観衆は始めて見るボートレースのスピードとスリルに驚嘆の目を見張ったものである。
 ところが、この日天候が急変し、雷鳴と豪雨のためレース続行困難となり、九レースで中止となった。売上げは、一五五万八千七百円であった。
 
浜名湖競艇と共に十五年
 以来「浜名湖競艇と共に十五年」ふり返ってみれば苦闘の連続であった。今ここに十五年間の十大ニュースを記してみよう。
(一)十三号台風によるレース場壊滅
 昭和二十八年九月二十五日、開設五十日後に来襲し、ほとんど全滅状態となった。
(二)吉田信義選手異議申立事件
 昭和二十八年開催間もない時、吉田選手がピットヘ帰投せず直接主審へボートを着けて抗議する。
(三)管理室の火災
 昭和三十四年十一月十四日、事務所、食堂、選手控室等、木造平家建四六〇平方米一棟全焼。
(四)払戻所前の橋の陥没事件
 昭和三十四年十二月一日、払戻窓口に近い橋板が腐蝕し、ファン一人が軽傷。
(五)異状干潮事件
 昭和三十八年四月十一日、レース中止。
(六)平井英明選手負傷事件
 昭和三十九年十一月、プロペラで胸、腹部を切り肺、腎臓露出の重傷を負い、浜松日赤病院に一ヵ月入院。
(七)選手ストライキ(乗艇拒否)事件
 昭和三十九年十二月九レース西村盈選手の出遅れ判定を不服とし十三日全員乗艇拒否。
(八)谷川宏之選手出遅れによる騒擾
(昭和四十一年六月十一日)
(九)アクアラングによるレース防害事件
(昭和四十一年八月)
(十)漁業補償不満のため競走水面に漁船集結。
(昭和四十二年三月)
 どれを見ても暗いニュースであり無我夢中で取りくんだ問題ばかりであるが、その中にあって明るいニュースも又忘れられない思い出である。
 
◎明るい話題の十大ニュース
(一)売上四〇〇万円突破し初めて大入袋が出る。
(昭和二十八年十二月)
(二)第一回全日本模型ボート大会において秋山君B級優勝
(昭和二十九年)
(三)現事務所新築移転
(昭和三十一年三月二十一日)
その間の事務所変遷歴
自昭和二十八年五月十八日
至昭和二十八年十二月二十五日
―公民館前保育園仮眠所
自昭和二十八年十二月二十六日
至昭和三十一年三月二十日
―関所西側(役場物入改造)
(四)第一回選抜水上スキー選手権大会で白井きみ子君優勝
(昭和三十一年八月)
(五)第四回全日本モーターボート選手権大会開催
(昭和三十一年十一月一日)
(六)神田博会長厚生大臣就任
(昭和三十一年岸内閣)
(七)選手宿舎「新大村」前の火災において津田道治選手
 以下全員応援活動して感謝状を受ける。
(昭和三十六年一月六日)
(八)競走法の恒久立法化
(昭和三十七年四月)
(九)湖西町施行権獲得
(昭和三十九年八月二十四日)
(十)静岡県モーターボート会館起工式
(昭和四十三年三月十日)
 昭和四十三年を迎え浜名湖競艇も生まれ変わろうとしている。十四年間苦楽を共にした舞阪町弁天島レース場とも決別し、新居町中之郷に名実共に日本一の施設を誇るレース場を新設し、昭和四十三年四月四日華々しくオープンを迎えたのである。更に二ヵ月後の五月三十日から六月四日までの六日間第十四回全国地区対抗戦が展開され、売り上げその他すべての面で記録を大きく更新したのである。
 更に、三月から行なわれているボート会館(競走会事務所、選手宿舎併用)建設の槌音は急ピッチに進められ、静岡県モーターボート競走会の前途を象徴しているかのようである。


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