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社団法人静岡県モーターボート競走会
競走会設立までの県内の動き
(熱海市の動き)
 昭和二十四年春の頃、当時三島市において開催されていた三島競馬が不振を続け廃止の噂さえ流れていた。
 その頃、熱海市では財政上税外収入の方途をいろいろ探究していたため、不振となった三島競馬を熱海市に誘致する動きが盛り上がって来たが熱海市には競馬場建設に必要な広大な土地も又莫大な資金の調達も見込がなく徒に日時は流れていた。
 その間に競馬法の改正が行なわれ、府県以外は競馬の開催が出来なくなったので、この問題は自然解消となった。
 そこでこれに代るものとして、風光明美な熱海湾を利用してモーターボートを競走させて、競馬、競輪のように券を売ってレースを行なうことが考え出された。
 対木公昭氏始め熱海市の有力者達によって日本競舟協会が設立され、モーターボート競走実現への第一歩を踏み出したのである。当時、市長も市議会も税外収入についていろいろ考えていた時でもあり、宗秋月市長始め市議会も賛成し、地元での実施への態勢は一歩一歩整って来たのである。
 当時は県知事の認可さえあればモーターボートレースは実施出来るものと簡単に考えていたので、必要書類作成の上、当時の県議会議長山田弥一氏(熱海市)を通じて県知事の認可を受けることにした。ところが、これは県知事の権限外であり、法律の根拠に基づき国の許可を取らなければならないことがわかってきた。
 そこでモーターボートレースが実施出来るよう国会へ請願書を出すことになり、熱海市の畠山鶴吉代議士(自由党)に依頼し、必要書類を国会へ提出したのである。
 その後、この書類は運輸委員会で審議、採択され昭和二十四年十二月の官報に掲載されたが、当時はまだモーターボート競走法も制定されて居らず、どのように計画を進めてよいか不明であり県の観光課長とも相談した結果、法案を作り熱海市出身の畠山鶴吉代議士(自由党)、小松勇次代議士(民主党)を通じ立法化を推進することになったのである。
 この頃、東京方面でもようやくモーターボート競走法制定の機運が盛りあがりつつあり、畠山、小松両氏は静岡市出身の神田代議士や大野伴睦氏に連絡し、笹川良一氏、矢次一夫氏のモーターボート競走法立法化運動に合流したのである。
 一方、熱海市ではレース場建設計画を進め、笹川良一氏、矢次一夫氏の指導を仰ぎつつあったが、昭和二十五年四月三日、大火に見舞われ繁華街は一瞬にして焦土と化したのである。復興に忙殺されている間、一時モーターボートレースは忘れられた状態にあったが、復興が進むにつれ当時レース場設置を進めていた沼津市と競願の形となった。
 熱海市の資金面は、後楽園が担当することに話も進み、積極的に推進されたが、熱海市内部の不統一、網代漁業会の反対、知事選をひかえての知事の公営競技の批判などが重なり、後楽園も手を引いたため遂に実現の運びに至らなかった。
 又沼津市もたびたび現地調査まで行なったが市民の一部に反対があり、軌道に乗るまでに至らなかった。
 
(舞阪町の動き)
 モーターボート競走法案が第十国会を通過するというニュースを聞いて、かつて町会議員であった舞阪町の佐野有国氏は沿岸漁業の不振による町財政の貧困を知っていたので、町財政改善の一助にもなろうかと、このニュースを町長代理の渡辺八平助役に連絡した。(当時舞阪町は町長選挙中)渡辺助役は早速服部議長と相談の結果、町議会を召集審議し、法案の内容やレース運営など全く不明ではあったが、同法の将来性に大きな期待をかけ「取りあえずモーターボート競走場設置申請書だけは提出すべきである」という服部議長の説に従うこととなった。
 昭和二十六年九月、東海海運局でモーターボート競走法説明会に出席した渡辺助役から事情を聞いた堀江清一町長は、服部議長と打合わせモーターボートレース場の設立に努力することとなり、既設レース場の視察が先決であるとし、琵琶湖及び津競艇場に赴(おもむ)いた所、偶然にも一日前に新居町が既に視察した後であった。
 
(新居町の動き)
 新居町は舞阪町ほど町財政は窮迫していなかったが、敗戦後の緊急工事が山積し、限りない新しい事業の地元負担をまかなうため、町の首脳部は日夜財源の発掘に腐心していた。
 こんな時、津競艇場が開設後、日なお浅いにもかかわらず、この事業に成功したというニュースを知った守田雪雄町長、田中武雄議長、小池節郎副議長等は早速競艇事業の研究にとりかかったのである。何よりも第一に現地視察を重視した守田町長、田中議長、小池副議長、栗本益喜建設委員長の四氏は七月二十・二十一日の両日、大津と津のレース場を視察した。
 琵琶湖競艇場の施設が近代的建造物であるのにはさすがの四氏も驚嘆し、これ程のものでなければ競艇場が許可されないとすれば新居町などでは到底出来そうにないと、いささか落胆したが、津競艇場に赴き各施設を視察した処、琵琶湖とは全く違い施設も簡単なものであり、この程度の施設で許可になるとすれば新居町でも実施可能であると意を強くし、志田市長に挨拶すべく訪れた市長室の机の上には、翌日舞阪町議会議員が新居町と同様の行程で津競艇場を視察する依頼状が置かれてあって、はからずも舞阪町でも競艇場設立の意志のあることを知ったのである。
 かくして、町議会も競艇場設立にふみきり、浜名養魚場跡(現新居町警察署および河合楽器新居工場敷地)をレース場予定地と定め、具体化を進めることとなった。
 たまたま、小池氏が競艇場設置申請のため県振興課に出向いた際、舞阪町が既に前年(昭和二十六年)四月競艇場設置申請書を提出していること、又事業の規模、性格などから両町話し合いの上進めるよう勧告された。
 小池氏は帰町後、召集された議会に県振興課の意向を伝えた処、満場一致の賛成を得たので直ちに舞阪町に対し競艇事業の共同経営を申し入れることになった。
 舞阪町は昭和二十七年七月二十九日この申し入れを受け入れ共同事業態勢が整ったのである。
 かくして新居町関所跡広間に両町議会議員が会同し、浜名湖モーターボート競走会設立準備委員会を設置し、この問題を推進していくことになったのは昭和二十七年八月二日のことであった。
 このように計画は進んだが、施行者指定認可申請書を地方財政委員会へ提出する段になって人口問題で難関にぶつかった。すなわち競走を施行しようとする市町村は人口三万以上を有するものに限ることが判然とし、当時の新居町舞阪町の人口は二一、八一九名であり、認可の対象にならないことが明らかになったのである。
 
(雄踏町へ共同経営を申込む)
 そこで、競艇場建設予定地(新居町新弁天)を中心とした隣接町村に共同経営を申し入れることになったが、鷲津町(現在の湖西町)は裕福町である点に難点があり、一方篠原村(現浜松市)は当時村会議員選挙中でもあり、かつ又直接浜名湖に面していないとの理由から不適格となり、残る雄踏町が唯一の頼みとなった。
 昭和二十七年八月二十六日、浜名湖モーターボート競走会設立準備委員会の服部、小池の両氏が代表となり競艇事業の共同経営を雄踏町に申し入れた。
 中村信作町長は開催中であった町議会協議会にこの申し入れを緊急上程し、全員の賛同を得て承諾の旨回答された。
 その後、雄踏町は町議会を数回開いた上、「事業経営の権利も義務も三町平等にしよう」と回答して来た。この回答を受取った新居町、舞阪町は雄踏町の正式加入を承認し昭和二十七年九月十八日、新居、舞阪、雄踏三町による初の設立準備会が開かれたのである。


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