日本財団 図書館


関東開発株式会社
 昭和二十六年六月五日モーターボート競走法が国会で成立、競馬、競輪、オートに続いて四番目の公営競技として世上に浮び上がった。
 群馬県においては、国会審議中の同年一月桐生市の田中義賢氏(群馬県競走会相談役)が、東京競馬関係者である東京都の荒居養洲氏(現群馬県競走会常任理事)等と、モーターボート競走開催について、談を交したのを端緒として、競走会創立発起人である地元の有志がモーターボート競走実現のため日夜奔走して、桐生市周辺都市に働きかけて、モーターボート競走の啓蒙に努めた。
 翌二十七年三月二十日運輸省の認可を得て、群馬県モーターボート競走会が発足して、初代会長に野間恒次氏(現群馬県競走会理事)が就任した。
 これにより、競走場設置促進を図り、東武鉄道株式会社上毛新聞社を始め数十氏の発起人の参加をみたのである。
 しかし、三千万円以上の施設に要する費用を投資することが桐生市の財政上まことに困難をきわめたので、競走会有志の人達は施設会社を創立して桐生市と特殊な契約を締結して、桐生市には財政的な負担をかけないという約定のもとに、施設会社創立に拍車をかけ、群馬県モーターボート施設会社(仮称)代表者海野幸世氏(現群馬県競走会理事)、群馬競艇株式会社(仮称)代表者早川政雄氏(現群馬県競走会理事)を経て、群馬県競艇株式会社代表者秋山千秋氏の代にいたって、競走場として申請中である、群馬県新田郡笠懸村大字阿左美沼東貯水池周辺の水利、水面、漁業、土地貸借等の諸団体に対する契約を二十九年十月に完了したものであるが、実に三ヵ年を要する難事業であった。
1 水利、水面関係
待矢場両堰土地改良区理事長 天笠 清
笠懸村 村長 赤石晋一郎
岡登堰土地改良区理事長 籾山茂吉
2 漁業関係
元川養魚場 元川市之助
待矢場両堰土地改良区
毛武興業株式会社 今井伊太郎
3 土地貸借関係
笠懸村
阿左美遊園地(阿左美興業株式会社取締役社長織田博)(毛武興業株式会社取締役社長今井伊太郎)
 以上の契約事項につき、保証人、立会人又は、これに協力された方々の氏名は、前記代表者を除き下記の通りである。(敬称略)
 群馬県競走会長笹川了平、同専務理事早川政雄、同理事野間恒次、笠懸村議会議長関口七雄、笠懸村高橋盛一、同橋場利蔵、岡登堰土地改良区副理事長須永源十郎、同理事小島幸作の諸氏で、三十一年前記契約の改訂に伴う覚書及び念証等の取交等において、協力願った方は、待矢場両堰土地改良区理事長天笠清、笠懸村長籾山琴次郎、笠懸村斉藤嘉吉郎、赤石吉太郎、森田万蔵、高橋五惣次。
 同年十二月二十五日阿左美沼東貯水池が競走場として、運輸大臣の認可を得た。翌三十年三月十八日自治庁より桐生市に施行権の許可がおりた。ここであらゆる条件は具備されたので競走場の建設に第一歩を踏みだした。
 桐生市紙谷建設株式会社紙谷喜久雄氏(故人、元群馬県競走会常任理事)を建設業者として、阿左美沼東貯水池の水底の浚渫、競技部整地のための沼埋立、堤塘敷敷地の整地等の工事に着工、五月完成をみたものの競走開催に必要な各種建物及び附帯施設の完成並びに、ボート及びモーターその他器材機具等の購入のための資金捻出につき、各方面に東奔西走したものの施設会社設立は遅々として進捗をみなかった。
 三十一年当時富山県新湊にモーターボート競走場施設計画中であった酒井建設工業株式会社取締役社長酒井利雄のもとに笹川連合会長より福井県競走会理事長一瀬専吉氏を通じて、桐生市競走開催にあたり施設の建設が行詰りがきているので、桐生に施設会社を創立してはどうかとの誘致相談があった。
 そこで当社として、競走場を中心として周辺都市の諸調査にのりだした。
 競走場である阿左美沼東貯水池は東南東経一三〇・二一度北緯三六・二五度、標高一三四米に位置し、関東平野の北にあたり名峰赤城山を北に望んで周囲は山紫にかすみ、渡良瀬川の清流に育まれ平和な一大盆地で桐生織物で発展した市街地は南北に発展している。
 周辺桐生市、笠懸村、薮塚本町、大間々町等四市町村の面積約一八二・六〇平方米の中央で内陸県群馬唯一のオアシスである。樹令五十年に及ぶ桜樹と四季咲き乱れる草花に包まれた風地地区の指定とともに、阿左美遊園地の名称で桐生市外の観光地でもある。風光明媚な立地条件と後背人口においても全国有数の競走場であると、関係当局の折紙がつけられている。
 この阿左美沼は旧沼と東貯水池(俗に新沼と称している)の約一五ヘクタールの二つの沼からなっている。両沼の中央堤塘敷に競走場をつくるのであるが、その母体とも称すべき阿左美遊園地の敷地の大半に各附帯施設を建設しなければならない。
 阿左美遊園地は昭和五年地元の阿左美正郎氏が旧沼に桜樹一〇〇本を植え、ボート二〇隻を設置して発足したことから始まり、昭和十年地元笠懸村の吉岡定松氏の斡旋で、東武鉄道株式会社先代社長根津嘉一郎氏が資本金を出し、東武本社内に毛武興業株式会社を創立して、その経営を薮塚本町の今井伊太郎氏(現関東開発(株)取締役)に一任した。
 今井氏は岡登土地改良区、阿左美土地改良区、笠懸村並びに関口伴蔵村長等の協力を得て、東武鉄道桐生線に阿左美駅の新設、同駅より遊園地迄の道路開発、沼周辺の桜樹を始めとする各樹木の植付け等の施策を講じ、遊園地と養鯉を併用経営に移した。昭和十二年東貯水池の建造をみたので、待矢場両堰土地改良区の協力を得て、両沼を使用する遊園地の拡張を図って入園者最高一万名を越す観光地とした。
 昭和二十五年群馬釣具株式会社が阿左美興業株式会社と名儀変更して、毛武興業株式会社と契約を行ない、遊園地は二社の共同経営となり、歳月とともに繁栄してきたのである。
 モーターボート競走場の登録規格に基づく競走場附帯施設の建設をすると、遊園地はまことに狭隘となって営業の不振は免れない等、種々の特殊事情によって、その契約は遅々として進まなかったが、連合会長の競走趣旨が早川政雄氏を介しての協議が数回もたれて、契約は具体化されて前述二十九年にその締結をみたのである。
 これ等の調査と特殊事情等により連合会長と種々協議の結果、競走事業推進に踏みきり三十一年七月酒井建設工業株式会社を建設業者として、桐生競走場の建造物に着工した。同月桐生競艇施設株式会社を設立、創立総会にて役員を定めた。取締役社長酒井利雄、副社長酒井利勝、専務取締役一瀬専吉、取締役秋山千治、監査役小路継三郎の諸氏により会社の経営が発足した。
 同月十六日会社は、群馬県競艇株式会社代表者秋山氏の準備行為を継承して登記した。
 同年十月三十日臨時総会を開催して役員を補充強化して初開催に備えた。
 取締役秋山千治氏、監査役小路継三郎氏が辞任し、就任役員は下記の通りである。
 取締役会長町野武馬、常務取締役宮川芳郎、取締役酒井繁嘉、今井伊太郎、笹川堯、笹川ヨシ子、笹川鎮江、川岸茂八郎、監査役笹川勝正、石垣兵治。
 同年八月当社要員として松枝良太郎、遠藤忠男、九月に宮川芳郎、井上守夫、山田喜勝、十月に市川四郎、須藤宗平等を現地に派遣して競走場建設並びに競走開催に万全を期した。翌十一月に整備要員を始め、その他要員の現地採用をもってその基礎を確立した。
 一方、競走会は委任契約による競走運営の実務担当者は東京都競走会の指導で多摩川競走場にて訓練を実施中であった。
 投票所を始めとする臨時従業員の採用であるが、ある程度の就練者を類似競技場に求め、他は桐生市、笠懸村を中心として周辺市町村より約三〇〇名を採用するのであるが織物機業地なので婦人の就職率は高く又、高労働賃金が支給されているだけに、諸団体の援助奔走等が効を奏して、十一月三日から投票所業務の訓練を開始することができてここに人事的開催準備は全く完了したのである。
 一方、登録事項である競走場の事前審査、登録検査、ボート及びモーターの登録検査等については、連合会の青木芳香氏、中北清氏、根本昇氏等の懇切丁寧な指導を受けて着々とその準備が完成されつつあった。
 待望の初開催を迎えたものの、売上は予期に反してかんばしくなかった。
 初日売上二、一〇六、〇〇〇円、二節十日間一日平均売上一、八七〇、〇〇〇円であった。
 その売上の不振に輪をかける難問が二ヵ月後に訪れた。それは競技水面である阿左美沼の排水、漁獲、貯水の問題であって、予期していたものの二月度以降の開催が休催となるのは、手痛いものであった。
 競走水面である阿左美沼東貯水池は群馬県の東部渡良瀬川と利根川との間に介在する新田、山田、邑楽の三郡にわたる六・二九二ヘクタールの水田の夏期最大用水期即ち挿秧期の十三日間に放流する予定の灌漑用水七六七・九七二立方米を貯溜する貯水池であって、昭和十二年に完成されたものである。
 所有者は、同貯水池の水源である渡良瀬川の水利権取得の待矢場両堰土地改良区で、その管理は地元の笠懸村であって、又水源渡良瀬川の水を上流山田郡大間々町より取入れ、引水して東貯水池に導入するには、岡登堰土地改良区の用水路を使用する。又これを内部操作して下流に放流するには、阿左美土地改良区の用水路を使用するという複雑な機構の貯水池である。
 又、年一回堤塘敷及び護岸石積の調査のため、放流を行ない九月以降の灌漑期の余裕水を貯溜するという契約上の規約もあって、その期間中に養鯉漁業者によって漁獲の水揚げが行なわれるのが恒例として実施されている。
 又、当社としては契約を取り交しているので、貯水池設計計画に基づく取水量で取水日数〇・四八三三立方米にて一〇四日余という貯溜日数のため三十二年二月度以降の競走開催は困難とならざるをえなかった。
 ここにおいて、競走関係者協議の結果、排水十九日、漁獲七日、貯水三十日合計五十六日間の線を出して、二月度の休催のみにて三月以降の競走を実施した。
 翌三十三年一月第二回の排水二十一日、漁獲六日、貯水二十六日合計五十三日に短縮し、用水路護岸の石積工事、水門の補強改修工事等を施行し、昼夜兼行による貯水実施の中に流水量、取水量の調査、対策等の研究の結果、第三回の三十三日間を数えるので、その実施の前後の月に操作するため、開催日程が密接するのと休催間の空白は売上向上をそがいしている。又灌漑用水のため夏期に放流されると十月以降迄レースの開催は全くのお手あげとなる状態である。
 十一月八日初開催以来五ヵ月間の総売上金額一二〇、一六一、三〇〇円、一日平均二、六一二、二〇〇円という売上額の不振に伴ない、売上向上の対策は切実なものがあった。当時石に噛りついても一日平均四〇〇万円という目標に向って邁進したもので、ありとあらゆる方法を積極的に実施した。
 まず施設の改善として、特別観覧席、湯茶接待所の新設有蓋スタンドの増設、冬期季節風、夏季炎暑対策、投票所庇の増設を始め場内の美化に努め、一方ファンサービスとして、無料バスの増車並びに区間延長、早期入場者に対するサービス品の提供、優待券の発行、ファン代表との懇談会の開催、市内速報版の設置、水上施設の改善とともに七隻建の実施等の施策を講ずるとともに宣伝又宣伝に努めた。
 宣伝関係は、中央紙、地方紙、月刊等の広告掲載の増加国鉄及び各私鉄の駅構内看板、車内貼り、駅案内版の増新設、沿線建植看板、立看板、有線放送、映画館スライド、開催報知の打上花火の増設、マッチの配布、車輌による一日平均走行一二〇粁の声の媒体宣伝等が効を奏して、三十三年度は一日平均売上金額が四〇〇万円にこぎつけて初期の目的を達した。
 以後各媒体による宣伝を継続するとともに、ファンサービスとしてファン謝恩芸能大会を毎年恒例として開催する等により、年次毎に売上を向上して、一、〇〇〇万円台に突入して、三十七年会社の機構をかえ、阿左美沼営業所を設置、所長に松枝良太郎が就任、四十年に笹川堯が会長に就任して、会社の充実とともに売上向上に対する意欲は昂まった。
 現今オーナードライバーの増加とともに、競艇ファンの希望であるモーターボートのスピードアップは売上向上と相まって切実な問題となってきたので、モーターボートの性能アップを期して競走用モーターボートの開発を行なう目的をもって、笹川会長はオーナー技術課員を同行してヨーロッパ各地の船外機メーカーを訪問した。その結果J、A、B、C、D、F、X以上七級別に驚威的な世界記録を保持しているドイツケーニヒモーターを選定して、技術提携を結び、整備技術を習得し四十年十月よりケーニヒモーターを競走用モーターに改良を加えテストに次ぐテストを繰返し、笹川会長率先のもとに昼夜兼行でかん難辛苦を重ね努力を研鑽した結果ようやくこれを完成。両施行者・競走会の絶大なる協力を得て、四十一年二月に競走用ケーニヒモーターを発表するとともに紹介レースを行ない、モーターボート界に新風を吹き込み同年六月業界注目のうちにオールケーニヒモーターにて競走を開催した。
 ケーニヒモーターが順調にすべり出すとともに、笹川会長を始めとするオーナー技術課は国産競走用高性能モーターの開発に着手して同年九月新型国産モーター「ふじ」を発表、翌年四月より「ふじ」モーターにて全レースを実施した。
 桐生競走場は初開催のヤマト30型モーターの初使用とあわせて、新しい三種のモーターで競走を実施したことになる。
 競走場の施設は数度の台風、季節風赤城おろし、降等に悩まされつつ施設の補修補強にあたっていたが、四十一年九月二十三日二十六号台風によるスタンド二棟、場内食堂等の倒壊により、施設改善工事に着工した。
 完成後の桐生競艇開設十二周年記念競走第五日、九月三日日曜日に売上記録一億円を突破して、漸くその念願を果した。
 顧みれば、初開催以来十二年、当初役職員従業員一丸となり、ポスターを十枚ずつもって町や村に貼ってPRをした想い出が走馬灯のように阿左美沼の水面に影をおとしては、小波とともに去ってゆく。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION