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空家の中にあるうらやましい未来
インタビュー
◎なかやの歴史
なかやは「なけえ」と呼ぶんだね。
「なけえ」も修理してもらえるなんて夢にも思わなかったろうね。
 
高橋正明さん
 古民家「なかや」は、「なけえ」と呼ぶ。
 むかしからみんな、あのうちのことを屋号で「なけえ」「なけえ」と呼んでいるね。
 商売をしていたからではなく、「なけえ」とは、大総家(おおそうや)という意味だと思う。あの辺でいちばん古い、つまり「本家」のこと。
 早川という氏の「マキ」はいくつあるかな。
 もう30年以上空家になっていたんだ。私はずっと郵便局に勤めていたから、そのおじいさんも知ってたし、娘さんも知っています。あの家はずっと農業をしていて、いまの方のお父さんの代は養蚕を営んでいたので、その当時のかごも残っている。むかしは家の中でお蚕を飼ったからね。
 養蚕は「なけえ」では早くやめてしまったようです。その後、養蚕教師をやっていたようです。田中角栄首相が中国と国交を結んだので、中国産の安い生糸がどんどん日本に入ってくるようになって結局勘定にならなくなったのだね。でもまだ飼っていたうちが二・三軒はあったが高齢になってやめてしまった。津金のほとんどの家でお蚕を飼っていて、この地域はそれが収入源だった。お蚕と米麦、むかしは田植えをする前に大麦を作って二毛作だったね。土をかける民具、わたしたちは「ほうりまんが」と呼ぶけれども、それもこの家「なけえ」には残っているよね。
 復元していくと、人が来ても、「この道具は何に使った」とか懐かしい話がいろいろできると思うからね。活用するようにすれば、面白いと思うね。なにかNPOやみんなの「集まるところ」になるところがほしいよね。
2006年5月23日(インタビュー・文起:吉本)
 
◎旧早川家住宅についての所見
専門家がみる幕末の家「なかや」
畑野経夫
はたの・つねお
山梨県生まれ。現在、山梨県・水戸市・茨城県筑西市の文化財保護審議会委員として全国各地の文化財保護に係る。財団法人文化財建造物保存技術協会参与。
 
 
 西方を南流する須玉川と東方の支流とによって生じた台地の東端に位置する旧早川家は、家歴は明かでないがこの地では中谷(なかや)と呼ばれた旧家で、ソウヤ(本家の意味)とも称していたという。屋敷地は前後がやや広いが西面(左手)は、道路、東面は崖が近く、南面に常口を開き南面して建つ茅葺の農家の主屋である。屋敷内には附属する建物は背面の西寄りに土蔵が残るのみである。
■概要 建物は桁行のうち下手(しもて)の土間部が約5尺を1間とする5間、上手の床上部が約6尺を1間とした5間半となる。梁間は約6尺を1間とした5間の規模である。屋根は入母屋造の茅葺屋根を鉄板で覆っている。
■平面形状 現状の平面形状は右土間形の直屋(すぐや)で、土間部は全体の3分の1程を占め、裏まで通ると土間とウマヤ・物置である。床上部は6間取りとし、南側に半間の縁を設け、6畳間と上手の8畳間の4室、下手に囲炉裏のあるイドコで構成している。
■各室の間取り (旧室名が不明であるので便宜上の名称とする)桁行の約中央通りで前後に区切り前側をおもて、後側をうらとすると、おもては下手から桁行9尺マのウマヤを2室、5尺マ2間のドマとなり、これから床上部となり1間のアガリハナ、つづいて6畳間、8畳間が2室並ぶ。更に曲手につづく奥の8畳間もおもての部分となり、南面した2連のトコ構えを付けたオクザシキである。うらは土間部分はウマヤのつづきが物置状の納戸、前面からつづく土間に張り出し床、床上部分が囲炉裏のあるイドコ、その上手が8畳大のナンドとなる。このうちイドコとナンドの間はすでに床組や間仕切りが失われているので推定である。(別添 現状平面図参照)
■平面の寸法 床上部(現状では畳敷の部屋)の1間を1.833m(6尺5分)とした寸法で造られている。これは基準の1間=6尺でマ延びが5分あることを示す寸法で、明治以前の建物にみられる現象である。従って2間のマは12尺1寸、1間半のマは9.075尺となる。この寸法は桁行と梁間とも共通している。土間部分の桁行寸法はウマヤが9尺、ドマが10尺であるから、それぞれこの比率の延びを加えた寸法に近い柱間寸法が測定された(狂いがあるので誤差がある)。
 これによると桁行総柱間は17.409m、(57.46尺)、梁間は9.164m(30.25尺)である。
■柱寸法と材種 この建物には大黒柱に相当するような特に大きな柱はない。床上の柱では約13.3cm角(約4.4寸角)が多く、やや矩形の柱もみられる。柱角は約9mm(3分)程の面を取っている。ほとんどは栂材であるがトコ柱は約4寸角の闊葉樹(欅か栗)を使用している。下手のイドコ柱はやや大きい15cm×16cmの栗材であり、土間はほとんど栗材の柱となっており、側柱は約4寸角と測定された。土間内のドマとウマヤ境の柱は棟通りが約18cm×19cm(6寸×6.3寸)と最も大きい栗材でその前後の2本もこれと同規模や準ずる大きさの栗柱がある。
■構造 正面は軒をセガイ(化粧梁で軒先の出を大きくする形状)造りとする。梁間5間のうち、背面は半間は葺下げとするので上屋部分は4間半となる。この中央が棟通りとなるので、正面から2間半にある桁行の間仕切り筋から棟通りは約45cm前寄りに位置する。この現象が土間部分に現れドマとウマヤ境に立つ中央の柱は床上部柱筋から前寄りにずれている。従ってドマ上に位置する牛梁も前寄りにずれて架けられているのがよくみえる。この牛梁を支点に前後に小屋梁を渡して小屋を組んでいる。床上部の構造は天井があってよく判らないが、棟通りから後方半間ずれた柱間仕切り筋の柱に小屋梁を架けているらしくあまり複雑な架構ではない。
 
畑野先生と地元山梨大学の学生たち
 
■後世の改造 旧当主の聞き取りは不可能であるが、建物の部材の状況からみると建て増しや取り壊し部分はなく、全体の規模のままである。しかし、間仕切りや床などにいくつかの改造がある。その時期は正確には記録がないので明かでない。このうち、イドコとその上手のナンド、背面柱筋は床組などが解体してあるのでこの部分は判らない。
 おもての3室のうち、6畳間はアガリハナ床とこの境の間仕切りは後で設けたものであり、縁境の柱1本も取り去ってある。おそらく天井も後で作ったものらしい。つづく8畳室は縁境と背面の中央部に柱を内法問で切り取り、6尺マの2マを2間の1マに改造した。端の8畳室も同様に縁境の中央柱を切り取って広い間に改造した。この時期は明治中頃までの仕事であろうか。最近は8畳室の西側面を板壁としているが建具が入っていたらしい。奥のザシキは特に改造した跡はない。
 うらのドマの張り出し床とイドコ境の間仕切り、イドコの天井も後設であろう。イドコ西面の間仕切の構えも後設である。
 屋根は表面を鉄板覆いとなっているが、その下には茅葺きの屋根が現存している。
■当初形状 ドマ正面の出入り口は、西方に引き込む間口約6尺の大戸があり、現状のアガリハナとその後方の張り出し床部分が土間であった。おもての6畳室は天井のない板敷の間かあるいはドマであったらしい。続く8畳2室は縁境に1間ごとに柱が立ち、南面に長押が廻っていた。
 イドコは板敷で天井もなく、おそらく南境の間仕切りもなかったらしい。建具は取り外しており新旧は不明であるが、正面の縁側のガラス戸は新しく、旧は建具装置はなく開放してあった。
(別添 当初推定平面図参照)
 
旧早川家住宅 略平面図
 
■建築年代の推定 須玉町の当地区の年代が知れている古民家の類例との比較検討を必要とするが、単純な間取りで間仕切りに柱も多く、丸太梁を使用しているのが古式を伝えている。正面のセガイ軒の入り込み縁はやや進んだ形式である。建築年代は19世紀前半から中頃とみられる。
■建物の特徴 当地区では割合に大きな規模と思われる。軸部は取り去られた当初柱以外の主要柱はほとんど残っており、保存状態のよい建物である。復原すると2連の内ウマヤと通り抜けのドマ(現状の6畳室がドマとすればなお広いドマ)がある。床上部は南面にセガイ軒の縁を設け軒高はやや高い。室部は畳敷きの4室にアガリハナとドマの出っ張ったイドコがある部屋割りでシンプルな平面とみてよい。奥ザシキは古式と思われる奥行きの浅い2連のトコが付くが、東側はあるいは違棚をつける予定であったかも知れない。この室の西面の外部との間仕切りは建具は欠失しているが2本溝の内法材が当初と思われ、明障子が入っていたらしく、開放的な構えで外に雨戸が現存している。ザシキ境は鴨居上に立派な筬欄間をはめ込み、おもての3室には棹縁天井を張り、内法長押を巡らすなど家柄を表す作りとなっている。当家は改造が少なく江戸時代後期頃の代表的な建物として貴重である。


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