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3. 塩屋湾岸の歴史を見る
 大宜味村の塩屋湾岸沿いの村々をゆくと、一帯になぜグスクがつくられなかったのか。その他に塩屋湾の塩屋村に作られた番所、ペリー一行が塩屋湾に6日も滞在したことなど。何故だろうかと思うこと度々である。
 塩屋と渡野喜屋(白浜)の渡し舟が往来していた時代がある。戦前・戦後の湾岸の写真を見ると、見事なほどの段々畑である。その風景は「山原の歴史」を読み取っていくとき、前提としなければならない風景の一つである(特に近世以降)。大宜味間切の村として東海岸の平良村と川田村が含まれていたことがある。そのことも不思議である。
 大正から昭和初期にかけて小規模ではあるがマチが発達していた。そんなことを思い巡らせながら塩屋湾岸の塩屋・屋古・田港・白浜(渡野喜屋)・宮城などの字(アザ)を訪れた。それらの段々畑をみたとき、1736年頃蔡温が山原の間切を視察し山林に関わる七書を編集したことが理解できる。林政に関する法律を制定したことで彼の偉大さを褒め称えることもあるが、山の頂上付近まで段々畑にしていかなければならない社会状況が法律を制定して保護する必要があった。
 一方では耕されている耕地の確認のための印部土手(原石)を使って行なった元文検地がある。猫の額ほどの段々畑まで地割の対象になった土地だったのだろうか。
 近世塩屋湾内に大宜味間切の番所が置かれた。大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切を分割して創設された間切である。当初、田港間切であったので田港村が同村なので、そこに田港間切番所が置かれたのであろう。田港間切から大宜味間切に改称されたとき、番所は大宜味村(ムラ)に移動。ところが大宜味村は外洋に面しているため租税などの積み出しに不便をきたしたためか、1732年頃塩屋湾内の塩屋村に番所を移している。ペリー提督の一行がきたとき、番所は塩屋村にあった。
 明治30年頃塩屋番所の名称は大宜味間切役場となる。役場の位置は、まだ塩屋村である。明治44年に役場が字大宜味に移転する。同44年塩屋校と津波校の新改築を条件に、役場は字塩屋から字大宜味に移転した。
 
ハーミンジョウから塩屋大橋を見る
 
田港方面から見た塩屋
 
ハーミンジョウから学校(番所跡)を見る
 
田港ウタキ前の祠
 
祠の中の香炉(香炉が約20基)
 
4. 塩屋と渡野喜屋の渡し舟
 塩屋と渡野喜屋(現在の白浜)間の渡し舟の往来はいつ頃からかはっきりしないようだ。明治14年上杉県令が大宜味間切を視察した際、渡し舟について間切から廃藩置県で不合理が生じている旨報告している。これまで渡し船の運航が夫役で間に合わしていたが、廃藩置県以後、それが出来なくなって困っていると。ならば運賃をとってどうかと県令から提案される。その後、渡し舟(伝馬舟)は村費で建造して「渡し賃」を取ることになった。渡し番は塩屋と渡野喜屋から、それぞれ出していた。
 役場の吏員・村議・郵便配達人・駐在所の巡査などは無料で、一般の通行人から渡し賃を取って運営していた。
 昭和の初め頃、名護から渡野喜屋まで乗合い自動車が運行するようになり(南陽自動車・朝日自動車・新垣自動車)、渡野喜屋は客待ちの場所となり雑貨や菓子を売る店、食堂ができ賑わったという。塩屋側の舟着き場は学校の校庭となっていて、賑わいを見せていた頃は送別の宴など校庭で行なわれ、授業に迷惑がかかったため舟着場を学校から少し離れた場所に変更された。
 渡し舟は辺土名までバスが塩屋湾を回って運行されるが、それでも渡し舟は続いた。昭和13年に宮城橋(丸太橋)が架けられると渡野喜屋と塩屋を結んでいた渡し舟は宮城島と塩屋を往来するようになった。昭和38年に塩屋大橋が開通したため渡し舟は役目を終える。現在の塩屋大橋は1999年に竣工したものである。
 昭和7年頃三島丸(約30トン)が就航し、塩屋と那覇間を結んだ。昭和17年村営の新造船大宜味丸(35トン)が就航する。当時は山原船も航海し薪や木炭、材木、農産物が輸出されていた。(参考文献:『塩屋誌』大宜味村塩屋)


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