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2. 塩屋湾とペリーの一行
 塩屋港は沖縄本島北部の西海岸、大宜味村塩屋湾にある港である。方言ではサーインナトゥという。サーは塩屋、インナトゥは港の意である。『ペリー提督訪問記』にはシャーベイ(Sha Bay)とある。東シナ海に面し、湾口をふさぐように宮城島が浮かぶ。奥の方に大保川(大保大川)が流入し、湾岸の地質は、湾口が中生代砂岩、奥の方は古生代石灰岩と一部沖積土質からなっている。
 
ペリーの図
 
 組踊(「花売の縁」)に「まこと名にあふ塩屋港、入船出船絶え間無く、浦々諸船の舟子共、苫を敷き寝に梶まくら」とある。
 王府時代の塩屋村(ムラ)に17世紀末頃から大宜味間切番所が置かれ、首里王府への貢物や薪や木炭を運ぶ山原船やマーラン船が出入りしたようである。現在番所跡地は学校になっている。「花売の縁」の主人公、森川之子は塩屋で塩を焼いていたといわれ、同劇の最初の場面で「宵も暁も馴れし俤の立たぬ日や無いさめ塩屋の煙」と謡われ、塩焼きの跡地に小さな祠が立てられている。
 咸豊3(1853)年にペリー一行は沖縄本島の資源調査を行い、塩屋湾には石灰層があると報告している。『水路誌』に「此の湾は全く陸地に囲繞せらる。然れども湾港方面に礁脈あるを以て和船より大なる船を入る能はず。湾口付近は距離半浬若しくは一浬の処まで浅水なり」と記されているように、大型船は入れない。湾岸沿いに塩屋のほかに屋古・田港などの集落があり、塩屋には間切番所、後の役場もあったが、一帯は陸上交通不便なところであった。
 昭和37年に宮城島の南側に宮城橋ができ、また昭和35年に塩屋大橋の架設工事が始められ、同38年に開通した。塩屋橋は橋長308m、橋幅8mである。昭和50年に本部大橋が完成するまでは沖縄第一の大橋で、中南部からの観光客が訪れた。塩屋大橋の完成により、湾岸約7kmを迂回しなくても、津波から塩屋へ行くことができるようになった(『角川日本地名大辞典−沖縄県』)。
 橋から眺める湾岸の風光は、ウンジャミのハーリーなどで知られている。
 
山原船が浮かぶ塩屋湾
 
那覇への航行中避難
難破船(大正元.12.13 沖毎)
 国頭郡大宜味間切字塩屋590士族雑貨商嘉陽宗従(50)所有琉球形四反帆船一艘に本月七日午後三時、同人所有の荷物を搭載し、船頭同郡同村田港村677島袋義一(33)外船夫三名、都合五名同乗して、大宜味村塩屋港を出帆し那覇へ向け航海中の所、天候忽ち不穏となりしかば、今帰仁村字運天及び古宇利に避難し、同月十日再び那覇に向はんとせしに、今帰仁字今泊沖合に来る頃より、風力勢を増し、加ふるに海水浸水する。船中の狼狽大方ならず必死となりて浸水汲出しに掛かり、本部村字備瀬まで廻航したるも及ばず、同崎に吹上げられ、船は微塵になって砕け、積荷悉く流失し、五名の者は暫く伝馬船に取乗り、生命辛々で同所に上陸したりと云ふ。
 
根謝銘村共有船風雨で破損
(明治13年9月22日)
 大宜味間切根謝銘村地頭代大城喜山外四名より出願す。曩に該村共有船刳小舟一艘風雨の為め破損致し候儀。上申の末右古楷木を以て今般製造方相整度旨を請う。因て、国頭役所長山内正右願書相添進達す(願書之略)
 
根路銘の山原船
 根路銘の船溜り場は、蔵ン当前から下門前までのスーミーという砂地の深みであった。明治34、5年頃根路銘に四、五隻の船があり、活躍していたという。明治35年、仲小(ナカグヮー)の山城と前当小(メートグヮー)の金城が仕立てた船は十反帆で、国頭佐手の船大工が上門小の浜で造った。明治40年に十反帆の二号船が上門下で造られ、泉屋の船頭は仲門小の高江洲、西ン門の浜元、新地の宮城などであった。この船は明治45年頃、那覇の三重城のヤラザで座礁し、沈没してしまったとの記録がある。
 また、明治40年に照屋と塩屋松根と組んで十反帆の船を造り、明治44年まで順調に航海していたが、下門前の海で大波にさらわれ波打際に船体をたたきつけられ船底が破損してしまうという事故があった。大正元年に上門小下の浜で新しく八反帆の船を造り進水するが一航海もせず他人の手に渡ったという。
 明治頃の船の帆はハブマーであった。ガマ(蒲)の草を編んで作った帆のことである。大正の初め頃、布地が急速に普及し帆に用いられるようになった。布地の反数によって八反帆・十反帆・十二反帆と船体を表していた。大正2年に巨大な十三反帆の船を造るが、この船から布帆に変わったという。その船に用いた帆柱は大宜味の松並木から切り出したが、その船は大正8年に大島で遭難してしまった。
 大正8年頃から運搬船として動力船が物資を運ぶようになり、第二名護丸が運航する。
 依然として陸路は不便で、当時根路銘から徒歩で塩屋までいき、二銭の船賃を払って渡野喜屋(白浜)までいき、そこから歩いて名護まで歩いて名護で名護丸に乗り那覇までいった。根路銘から羽地村仲尾次まで刳舟で渡ることもあった。
 
根路銘の平安丸(動力)
 昭和6年に伊江島から船を買い入れ、平安丸と呼ばれた34、5トンの貨物船である。昭和7年から大宜味〜那覇間の運送をはじめた。村の産物を運び、生活必需品を運び共同売店に便宜を与えた。しかし昭和8年の夏に沈没事故が塩屋湾で起きた。
 三島丸大島から37トンの貨物船を買い入れ、地元の人に一株づつ名義を与えて運営した。積み荷は田港・塩屋・安根・根路銘・大兼久・饒波・喜如嘉などの林産物で、各集積場所から伝馬船で積み込み、砂糖は屋古に集積していた。饒波の上から切り出した木材などは川ふちに集め、大雨の流れを待って、いっせいに川に放り込み川下で集める方法をとった。船は毎月五往復、避難場所は塩屋港であった。那覇での津口は第二桟橋、渡地前である。上りの便の荷物は、ここで降ろされ目録通り売られた。
 
根路銘の船の積荷
 積み荷の主なものは、材木・木炭・松炭・便木(さらぎ)・センダン・ヤラブ・イクギチ・竹・柱木などと砂糖であった。商品の主なものは、米・豆・石油・油・大豆粕・袋入肥料・セメント・ダシ小箱・下駄包・文具類・紙包・豚・牛・木材のいっさい・豆腐ウス・酒徳利・瓦・昆布・茶・漆器・陶器類・反物・バーキ・ソーキ・ナベカマなどで、山原での日常生活用品はすべて積み荷となった。
 下り荷は各字の売店前に船をつけ、田嘉里では浜に陸揚し、馬車で売店に運んだ。木炭の集散地は与那原、那覇では帆船を利用する泊港、動力船を利用する渡地であった。東海岸で生産された木炭は与那原に集められた。昭和16年大兼久前に錨をおろしていた三島丸が、風に吹かれて干瀬に乗り上げ、積み荷を投棄するが大破し横倒しになってしまうという事故が起きている。
 
根路銘の海岸
 
 その後新造船として発注されたのが大宜味丸である。昭和19年、空襲に備えて大宜味丸は船体を偽装して塩屋港のハンザキマガイに隠れるように停泊していたが、爆撃にあい船底が大破した。山原船のほとんどが今次大戦で爆撃され姿を消してしまったという(『根路銘誌』参照)。
 
帆屋(フーヤー)
 帆屋(フーヤー)饒波と謝名城に帆屋といわれる家があった。両方とも、現在の国道58号沿いのムラ入口の方におかれていた。帆屋について、饒波ムラの人々は次のようなことを語っていた。
 海岸沿いの大きな道路からかなりおくまったところにムラがあり、なにか事件等がおきた時には、その情報の伝達がおくれるので、それをすばやくとらえてムラに報告してもらうことや、用件で他所にでかけた人がおそく帰る際に、ムラまでおくってもらうとか、あやしいものが徘徊すると、そのことを通報する、といったような役割を帆屋は担っていた。ムラの入口で番をして、ムラとの連絡にあたったということである。
 (一部省略)置県前後の頃まで各ムラはムラ有の山原船をもっていた。ムラできり出した薪木を運ぶために必要な船であったし、他所から物をいれるためにも必要であった。
 そのようなムラ有船の道具を保管したり、監視したりするためにたてられた建物が帆屋であったと思っている。ムラの帆船等がみえると、帆屋につめていた番人は、山原船の入港をムラの人々に伝えた。船の入港によって、ムラ人たちは、薪の準備をしたり、船積みの手筈をととのえたにちがいない。そういう意味で、帆屋はムラにとって大事な箇所であった。
 大宜味村の多くのムラは海岸線に沿って立地しているので、ことあらためて船の監視、道具保管の場をつくる必要がなかった。が、海岸線から離れた場所にムラがあった謝名城・饒波にとって、帆屋は必要なものであった。(『大宜味村史』通史200頁)
 
昭和12年更正矼が架かる
 昭和12年大宜味村渡野喜屋と対岸の宮城との間に、当時沖縄一の矼(橋)が架かる。矼は更正矼と名づけられ、その長さ木橋で96間。矼が架かる前は本島側にある田畑をサバニで往来していた。学童の通学もサバニで往き来していたので、天候に左右された。そのため遅刻や欠席が多く学校は手を焼いた。矼が架かったことで宮城島の「離島苦を解消」と新聞は伝えている。


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