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国頭の港
 
 国頭村は沖縄本島の一番北側に位置し、港を通して繁栄したことはほとんどなかった。国頭村の集落は、陸地中央部の山地から流れる川口の入江付近に発達している。近世、沖縄では首里から各間切番所へ布達を伝えるために宿次制度が敷かれ、西原−宜野湾−越来−美里−金武−久志−羽地−大宜味−国頭の順で宿次がなされていた。国頭間切は東宿だが、陸路の宿道(すくみち)があったにしろ、国頭地方は山地が海岸まで迫り、集落と集落とが遮断されていた時代が長く続いた。山原で郡道が整備され陸上交通が便利になったのは大正以後で、それまでは海上交通が主であり、国頭村では昭和の10年代まで陸路とともに海上交通も盛んだった。しかし海上交通が主であったにしろ、自給自足の生活だったため、漁業が発達するまでには至らなかった。
 海上交通が主であった国頭地方の港は、東海岸は与那原、西海岸は那覇との経済的な結びつき強かった。また、地理的に与論・沖永良部・徳之島・奄美大島との交通の便があった。
 国頭村の港は首里王府への租税の納付、そして首里・那覇への材木や炭などの供給地としての役割を担っていた。1731年の『琉球国旧記』(附巻)に「比地邑の蹈喜屋江・幸地江、辺土名邑の炭儀山江・真竹名江、伊地邑の中塘江、与那邑の浜江・大江、謝敷邑の伊野波江・宇緑江、佐手邑の大江、辺野喜邑の大江、宇嘉邑の大江・蛇屯江、辺戸邑の大口江・奇喇麻江・武銘江・吉葉江、奥邑の興江・楚巣江・棚江・亀江・大江・伊英江、安田邑の伊符江・嘉智江・混茶江・大山江、安波邑の大江・宇嘉江」などの川名が数多くあげられ、国頭間切の村々に江(川)がたくさんあったことが知る。それは陸上交通が不便で、村と村とが地理的に遮断されていたことによる。
 以下、国頭村の浜・鏡地港・屋嘉比港・辺土名港・宇良・辺野喜港・奥港・安田港・安波港の概況をみていくことにしよう。
 
1. 浜港
 浜港は国頭村字浜にあり、かつて国頭間切の番所があったところで行政の中心地をなしていた。戦前は男児が10才、11才の頃になると胴代金(契約金)をとって糸満の漁夫に年季奉公させた。奉公期間は21才の徴兵検査までとなっており、身体の丈夫な少年には120円前後の胴代金を出したという。その結果浜では漁業が広まり、60年ほど前から網やハエ縄を使用する人たちが出て、漁業が盛んになったことがある。昭和45年頃の記録によると漁業は1月から5、6月まで盛んで、この時期になると糸満からもエビとりにやってきた。60人くらいでガツン組合を結成し、ガツンの大群にあったときなどは一万円もあげた。クリ舟が20艘あって、網漁も盛んであった。
 
2. 鏡地港
 鏡地港は戦前、材木や蔬菜などを積み出し、山原船などが出入りして活気を呈していた。現在は港としての利用はない。かつて比地川の上流まで山原船が出入りしていたという。赤丸崎に船の帆で小屋を作って住んでいた人がいて、フーヤー(帆屋)と言われ、岬もフームと呼ばれるようになったという(『国頭村の今昔』)。
 
鏡地港のあった海岸
 
 鏡地港は赤丸崎とサバ崎とに擁せられた港で、『上杉県令日誌』(明治14年)に「湾アリ帆崎ノ半島斗出ス、一箇ノ離レタル小島アリ、此処二山原船碇泊ス、カガンヂ港ト云フ」とある。また『沖縄県地誌略』は「本間切第一ノ良港ナリ」と記している。王府時代から蔵屋敷があり、国頭間切の貢租品はこの港から積み出された。漂流人を泊港や那覇港に送るのにもこの港が利用された。
 
3. 屋嘉比港
 
根謝銘グスクから見た屋嘉比港
 
屋嘉比港を抱えた根謝銘グスク
 
根謝銘グスク
 
 屋嘉比港は国頭按司の貿易港であり、貿易船の出入のさまは「おもろ」に謡われている。「鉄をもたらす日本商船もここに寄港し、按司はこれで刀剣や農具を造って、支配の手段に供したに相違ない。根謝銘城内には近代初期まで鍛冶屋があり、現在の一名代の屋号金細工屋の先祖がその業を世襲していたといわれている。サバ焼で代表される文化も、屋嘉比港を起点とする対外交通を媒介に発達したものである」(『国頭村史』49頁)。ただ、かつて山原船は比地村の下まで遡行したが、鏡地港の活況を背景として屋嘉比港はその機能を果たしていたと見られる。
「おもろさうし」に、
やかびもり、おわる
(屋嘉比杜におわす)
おやのろは、たかべて
(親のろは崇べて)
あんまぶて、
(われを身守りて)
このと、わたしよわれ、
(この渡を渡し給われ)
又あかまるに、おわる、
(又赤丸におわす)
てくのきみ、たかべて
(てくのきみ崇べて)(13巻、176)
又やかびもり、おわる、
(又屋嘉比杜におわす)
かねまるは、たかべて
(金丸は崇べて)
又あかまるに、おわる、
(又赤丸におわす)
てくのきみ、たかべて
(てくのきみは崇べて)(13巻、182)
 と謡われた。大意は「屋嘉比杜にいらっしゃる親ノ口や、赤丸岬にいらっしゃるレクノ君をお祈りしていますので、どうか私を守ってこの海を安全に渡して下さい」である。
 屋嘉比港は、明治時代初期には帆檣林立し港として機能している姿が見られた。それは鏡地港を背景にして機能を果たしていた。かつて、山原船は比地村の下まで遡行したが、鏡地港があってのことであった。現在では屋嘉比港は港としての痕跡はほとんど見ることはできない。
 
4. 辺土名港
 辺土名港はかつて津口番が駐在していたところである。上島河口(国頭中学校横)付近には、現在でも津口神をまつる拝所がある(『国頭村史』)。
 
5. 佐手
 佐手のウェーキである新里家(屋号佐手の前)は山原船を三隻所有し町屋を経営、常時下男五、六人と下女四、五人がいたという。その所有船は奄美大島や与論島に渡航し、行きは建築材や藍玉を積建築材や藍玉み、帰りには牛や豚などを仕入れてきて利益を得た。木材や薪を海岸口に下ろし、それを舟に積み込むには部落民が手伝ったものであった(『国頭村史』)。


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