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CORM4 坊津一乗院にもたらされた中世石塔
松田 朝由
 坊津町一乗院跡の中世石塔はその多くが黄色をなし、一見して揖宿郡山川町で採石される山川石とわかる。この山川石の石塔は材質のみならず形態にも各地域で共通性がみられ、山川で石塔として完成したものが各地域に運ばれていることがわかる。一方、他地域の石塔と比較した場合、山川石の石塔には形態等に独自性がみられ、同一手法、同一石工による石塔の共通性によって括られる石造文化圏を形成している。その範囲は坊津町から海岸線沿いに大隅半島の佐多町まで広がっており、主に海道によって結ばれた鹿児島湾を中心とした地域に山川石の石造文化圏がみられる。その中で一乗院跡のある坊津町はその西限に位置しているといえる。
 
一乗院跡の山川石製石塔
 
 一方、一乗院跡では山川石以外に灰色をした中世石塔の部材が10基ほどみられる。これは福井県高浜町日引で採石される「日引石」(ひびきいし)と呼ばれる安山岩質凝灰岩の石塔である。日引石の石塔は大石一久氏による研究があり、それによると関西の石塔の特徴をもち、北は青森県十三湊から南は一乗院跡まで東シナ海沿いに大量に運ばれているという。鹿児島県内では現在のところ、この一乗院跡以外では確認していない。日引石の石塔が一乗院跡に建塔された背景には一乗院跡と日引石石工との関係が推測されるが、間に別の集団が介在していた可能性もある。例えば九州内では長崎県に多量の日引石の石塔が運ばれており、長崎にいた集団が関わっている可能性もあろう。いずれにせよ、海道によって東シナ海に広く結ばれた日引石の石造文化圏にも一乗院跡は関わっていたのである。それは、日常的な山川石の石塔の建塔に対して特殊の事例であったと思われる。
 ここで、一乗院跡に運ばれてきた日引石の石塔の種類に注目したい。10基中8基が宝篋印塔の部材で宝篋印塔の多さが目立っている。そこで参照として長崎県の事例をみると265基中五輪塔162基に対して宝篋印塔は101基もあり、やはり宝篋印塔の多いことがわかる。これに対して山川石では宝篋印塔は五輪塔に対してごく少数で、一乗院跡でも同様の傾向を示す。ところが、島津氏や頴娃氏、根占氏の石塔では多くの宝篋印塔をみることができ、山川石においては上位階層者によってさかんに建塔された可能性がある。以上の日引石と山川石の宝篋印塔のあり方からは、両地域で宝篋印塔に対する造立意図が異なっている可能性が想定されるのである。当時の一乗院周辺の人々は同じ宝篋印塔に対して山川石と日引石とで異なるイメージをもっていたのであろうか、それとも上位階層者が自らのシンボルとして日引石の宝篋印塔を要求したのだろうか。もしくは地元でない人間がそこには供養されているのであろうか。海道を介して運ばれてきた日引地方の石塔はさまざまな問題をはらんでいる。時は坊津一乗院の繁栄期、16世紀の出来事であった。
 
【参考文献】
大石一久 2001「日引石塔に関する−考察−とくに長崎県下の分布状況から見た大量搬入の背景について−」『日引』第1号 石造物研究会
 
若狭(福井県)から運ばれた一乗院跡の日引石製宝篋印塔
 
一乗院跡の日引石製宝篋印塔 実測図
 
2. 「坊津一乗院聖教類等」
 坊津一乗院に伝わっていたとみられている古文書群、鹿児島県指定文化財「坊津一乗院聖教類等」(18巻)は、一乗院の歴史や、国内各地の密教寺院のネットワーク、僧の交流を知る上で重要な資料です。
 平安時代から江戸時代まで、様々な場所で書写作成された「聖教」「印信」等が伝存したもので、廃仏毀釈等のため寺院の史料が少ない鹿児島県内では特に貴重なものです。
 「聖教」とは経文・教説・仏典のことで、「印信」とは密教で師が弟子に秘法を授けたことを証して与える文書のことです。
 昨年行われた鹿児島県歴史資料センター黎明館の栗林文夫氏の企画特別展調査では、この文書群の中から、14世紀に書き写された独鈷形の「日本図」も確認されています。また、「坊津一乗院聖教類等」の中には、寺伝などをまとめた『西海金剛峯龍嚴寺一乗院来由記』(17世紀成立)なども含まれています。
 
『密教関係巻物』(坊津一乗院聖教類等)「日本図」部分
(輝津館蔵)
 
『一乗院印信聖教類等』(坊津一乗院聖教類等)
「コ−240-22」部分他
(輝津館蔵)
 
『西海金剛峯龍嚴寺一乗院来由記』(坊津一乗院聖教類等)
(輝津館蔵)


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