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表紙説明◎名詩の周辺
特別編―新春財団周辺
虎ノ門金刀比羅宮・琴平タワー
 平成十七年。新しい年が明けました。それに伴うかのように、財団のあるこの虎ノ門一帯にも新しい波がいろいろ押し寄せています。
 まず、いちばん大きな変化は、財団の入っている海洋船舶ビルの前に鎮座する虎ノ門金刀比羅宮(別名・虎ノ門金毘羅さん)の境内に巨大な高層ビルが昨年末に完成したことです。高さ一一五・〇二メートル、地上二十六階、地下三階のこのビルは「虎ノ門琴平タワー」といい、まさに金毘羅さんの本堂のすぐ横にあります。財団の窓から見ても上を仰ぎ見る感じで、威風堂堂とした朝日に映えるこのビルは虎ノ門の新しいシンボルといえるでしょう。
 ところで、この金刀比羅宮は「金毘羅船々」の歌でも親しまれている讃岐の金毘羅さんの分社で、江戸時代の万治三年(一六六〇年)、丸亀藩主京極高和がその邸内に勧請したもので、当初は三田の京極邸内にありましたが、延宝七年(一六七九年)藩邸の移転にともない現在地に移りました。以来毎月十日を縁日とし、市民の要請に応えこの日は邸内を開き参拝を許していましたが、明治に入って京極家と社地を分割し、神社として独立しました。御神徳は「五穀豊穣、殖産興業、大漁満足、海上守護」などがあり、とりわけ『航海の神』として崇敬を集めています。
 
 
 笹川良一創始会長は、モーターボート競走の創始者でもあり、海や航海については特別に思い入れが強く、会長五十七歳の時には、八十二歳の母堂を背負い、讃岐の金刀比羅宮の長い階段を参拝のため登った話はよく知られています(この時の様子を伝えるのが、三田の笹川記念会館前の銅像であり、またその時作られたのが「わが母への讃歌」です)。
 そのことを考えると、なぜ、旧船舶振興ビル(現海洋船舶ビル)が虎ノ門金刀比羅宮のすぐ前にあるのかが分かりますし、笹川創始会長の金毘羅さんへの崇敬の念の深さも理解できます。
 また、境内には新しく、能舞台も作られました。これからは伝統芸能の振興もはかられそうです。
 読者の皆様も、東京メトロ(旧営団地下鉄)の虎ノ門駅で降りて、財団訪問にお出での節は、ぜひ、新しい金刀比羅宮へも参拝してください。
 
笹川創始会長が57歳の時、82歳の母堂を背負い、金刀比羅宮に参拝するの図
 
金刀比羅宮の大祭は毎年10月9日、10日で、それに因み毎月9日、10日が祭日。10日には境内や参道に縁日の露店や屋台も出る
 
【虎ノ門金刀比羅宮・琴平タワー】
 東京メトロ銀座線虎ノ門駅下車約二分。
 
吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第18回
文学博士 榊原静山
鎌倉、室町、桃山時代の詩壇【その二】
釈 絶海(一三三六〜一四〇四)名は中津、号は蕉堅道人という。生まれは義堂と同じ土佐の出身で、義堂より十一歳後輩で、同じく夢窓国師の門に入る。三十三歳で明へ渡り、大祖に謁し、帰国後天竜寺、相国寺に住し、七十歳で入寂し、“蕉堅橋”一巻の詩集を弟子鄂隠が編集している。
 
 
(語釈)莎衣・・・蓑衣のこと。客星驚漢宮・・・これは厳子陵という者が漢の光武帝の学友であったが、ある時、子陵は魚を釣っていたが、光武帝に召されて王宮へ行って光武帝と一緒に寝た。子陵は足を光武帝の腹の上にのせて眠ったので大史が、“客星が帝座を犯した、大変だ、大変だ”と騒いだ。光武帝は笑って、“ただ子陵と一緒に寝ただけだ”と言った話から。
(通釈)寒い河で釣糸を垂れているのは何処の翁であろうか。身につけた蓑はしっかりしていて雪や風に堪えている。釣った魚を村へ持って帰って酒にかえて楽しみ、厳子陵のように漢宮を騒がすようなことはしなくてもよい―。
 ほかに、僧門から永平寺の道元禅師をはじめ、祖元、寂室、中巌などが出ている。
 
道元禅師(一二〇〇〜一二五二)正治二年京都で生まれ、三歳で父を、八歳で母を失ない、無常を感じて出家した。十四歳で叡山にのぼり、天台を修学し、後に大陸へ渡り宋の天童山に上り、禅学を修めて帰り、雲州の大守波多野義重が建立した永平寺に入り、開山となり、曹洞宗を開いて全国の人々の信奉をあつめた。
 正法眼蔵九五巻をはじめ、普勧坐禅儀、学道用心集、永平広録、宝慶記などがあり、建長五年八月二十八日、五十四歳で没している。
 
 
道元
 
(語釈)山居・・・深山に住むこと。西来・・・西の方のインドから来た。祖道・・・達摩大師の教え。
(通釈)西方インドや中国からの達摩大師の教えを自分は東の国、日本へ伝えひろめようとするのである。月を釣り雲中を耕すというような清浄な古の遺風を慕ってやまないものである。幸いに、ここには世俗の紅塵のようなわずらわしいことは飛んでいって来ない。この深山の雪の夜に草庵の中で、独り静かに坐して仏法を修しているのである。
 
釈祖元(一二二六〜一二八六)鎌倉時代の臨西宗円覚寺の開祖で、宋の明州の生まれ。中国の杭州の浄茲寺の北和尚について出家し、北条時宗の招きにより弘安二年に来日した。初め建長寺にいたが、時宗は円覚寺を創立して祖元を開祖として崇敬していた。弘安九年八月、六十一歳で入寂している。
 
 
(語釈)卓・・・立つと同じ。孤・・・一本の竹の杖
(通釈)天地は広く大きいのに、一本の杖を立てる余地がないとは、さても世界はせまくなったものであることよ。有難く思うことは、人間も法もことごとく一切は空である、有ると思うのはみな仮りの姿で、大も小も有ったものではない。それなのに大元国の三尺の剣を珍重している。本来空と観じている自分を斬ったとて、電光一閃春風を斬るのと同じようなものであるのにと、元の兵をののしっているのである――。


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