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吟剣詩舞だより
平成十六年三月二十八日
鳥取県立鳥取県民文化会館梨花ホール
吟道翔風流日本吟翔会初代宗家佐藤翔風追悼、二代目宗家襲名披露、創流十五周年記念
全国吟詠剣詩舞道大会をおえて
 平成十六年三月二十八日、鳥取県立鳥取県民文化会館梨花ホールに於て初代宗家追悼、二代目宗家襲名披露、創流十五周年記念、全国吟詠剣詩舞道大会を開催いたしましたところ、全国から多数の名流の先生方にご来場いただきました。
 
吟道翔風流日本吟翔会創流15周年記念
全国吟詠剣詩舞道大会式典
 
 (財)日本吟剣詩舞振興会会長・河田和良様、愛国詩吟総連盟理事長・八島紫海様には二代目宗家披露にあたりましてご懇篤なる二代目の紹介を賜り、日本吟翔会にとりましてこれ以上の栄誉はございません。
 また、初代宗家故佐藤翔風の親友で現代漢詩壇の最高峰であられる伊藤竹外先生には初代宗家追悼の詩と二代目宗家襲名の祝賀詩をいただき、また先生自らご披露いただきました。
 全国から宗家会長の先生方五一名をご招待し、また、京都大雅流様八〇名、京都・岡山旭章流様二五名の友情出演による合吟発表を含め一三七名の先生方の応援を得て、素晴らしい舞台を展開することができました。
 梨花ホールの座席は二千名でありますが立ち見が出るほど、多くの観客の方が詰めかけました。
 皆さまのお陰を以ちまして、二代目宗家として華々しく披露させていただきました。これを契機にさらに発展させるべく、会員一同が一丸となって研鑽いたしますので、全国の吟友の皆さまも今まで以上のご指導ご鞭撻をいただきますようお願い申し上げます。
(二代目宗家 佐藤翔風)
紫虹流北陸紫虹会三十五周年記念大会
 桜花爛漫の四月十一日、金沢アートホールにおいて(財)日本吟剣詩舞振興会を始め、石川県総連、珠洲市、金沢中日新聞等のご後援を頂き、また、日本吟界を代表する多くの諸先生方のご臨席を賜り盛大に開催されました。
 午前十時に、艶やかな振袖姿の幼少青年の合吟「清明」でオープニング、引き続き会員吟、関東地区からのご招待吟、総本部企画構成吟「中国の詩人伝」と題し独吟、連吟合吟、詩舞の熱演で会場から万雷の拍手を浴び、午前の部が終了。
 
北陸紫虹会35周年記念大会
 
 午後より、記念式典が挙行され大会長および総本部理事長、宗家挨拶に続いて、ご来賓諸先生の心温まるご祝辞を頂戴し、凛とした中に厳粛に行なわれた式典に、改めて三十五周年の重さを実感するものでありました。
 この後、御招待吟剣詩舞、大会正副委員長、総本部理事長、大会長の吟詠に続き、最後には御来場の全ての方に感謝の意を込めた宗家の吟詠で締めくくられ、七十八番のプログラムは盛会の内に閉会となりました。
 北陸の、しかも能登半島の最先端の珠洲市で産声をあげた紫虹流北陸紫虹会の三十五周年にあたり、このように盛会に開催できました事は感無量でありました。
 これを機に、なお一層の精進をお誓いし、報告と致します。
(大会事務局)
春洋流東洋吟詠会創流六十五周年記念
吟詠剣詩舞道大会
 多摩の山々の緑が深みを増す四月二十五日、八王子市民会館大ホールに於て、春洋流東洋吟詠会創流六十五周年記念、併せて石川春芳会長襲名披露大会が、春洋流門下一同ならびに、一般の方々、来賓の先生方の御臨席を賜り盛大に開催されました。
 開会に先立ち、国歌斉唱、春洋流七訓魂、会詩合吟を参加者全員で熱唱し、来賓の先生方の審査による支部対抗合吟コンクールが行なわれ、記念大会に相応しい熱吟に満員の聴衆は熱心に聞き入っておりました。
 午後の部の式典に入り、富永春隆大会副会長が開式の辞、続いて渡辺春窓理事長が挨拶をし、来賓祝辞を八王子教育長成田一代先生、財団事務局長・矢萩保三先生、都総連理事長・吉見芳蘭先生、八吟連理事長・海老澤宏升先生、テイチク吟詠協会会長・小林潤先生に頂き、宗家のお礼の言葉、祝電の披露の後、宗家より会長認証状が石川春芳会長に手渡されました。続いて平成十五年師範合格者、永年在籍功労者の表彰、敬労賞には九十三歳で今なお活躍されている、大八木春遊さん始め二十七名の方が表彰されました。
 
春洋流東洋吟詠会創流65周年記念大会式典
 
 御来賓の先生方の剣詩舞の披露で大会に華を添えて頂き、最後は企画スライド吟詠、学問の神「菅原道真」を宗家始め十五名の吟士によって熱吟、大会を締め括りました。
 閉会後、会場を移し記念大会祝賀会を開催。宗家の挨拶に続き、来賓の先生方のお手伝いで目出たく鏡開きを行ない、乾杯の後次々と余興が繰り広げられ、宗家の郷里南那須町・荒川中学校の恩師大金イネ先生始め十六名の同窓生の皆さまが校歌と「ふるさと」を熱唱し宗家を激励、会場は感動の拍手が鳴りやまず、祝賀会は最高潮に達し閉会の言葉、万歳三唱で、三時間余り続いた祝賀会を終了しました。
(事務局)
 
平成十六年四月二十九日
前橋市民文化会館
心彰流愛吟詩道会
第三十九回吟剣詩舞道大会
 朝から快晴の良き日、標記の通り市民文化会館大ホールに観衆を埋め尽くし開催されました。
 大会実行委員長の開会宣言、次いで全員による会詩大合吟で始まり、まずは幼少年の吟詠および剣詩舞が行なわれ、割れるような拍手が沸き上がりました。式典は国歌斉唱、家元金井先生、宗家志塚先生の挨拶、御来賓衆議院議員、前橋市長ほか県会議員による祝辞を戴きました。今回は会員数百名以上の参加、観客も七百名余来て下され、最後まで立錐の余地が無い程の大盛況で、午後は師範会百名以上の大合吟、続いて全国吟詠コンクールに優勝した十名の吟詠が行なわれ、美声を披露致しました。
 構成吟は「大空に輝く太陽と月と星」で総員百名以上が吟じ、その最後は「月夜荒城の曲を聞く」で、生のピアノ伴奏で「荒城の月」のコーラスを投入して、異彩を放った。大締めは宗家の「祝い船」、家元の「梅干」の吟に夫々詩舞が入り観客を大いに魅了しました。
 
井野大会実行委員長の開会宣言
 
 最後は会歌大合唱、万歳三唱で五時前に盛会裡に総ての出し物が終了しました。
(大会事務局)
平成十六年度清吟堂吟友会
女性部大会吟舞の祭典
 平成十六年四月二十九日みどりの日、平成十六年度清吟堂女性部大会吟舞の祭典が愛媛、香川、島根、鳥取などの各県より約六百人の女性会員が松山市総合コミュニティセンターに参集して盛大に開催されました。同会は毎年四月二十九日「みどりの日」を奉祝し開催され、増田麗笙女性副局長の開会宣言、国歌斉唱、信条斉唱に続き、水上麗美女性局長の開会のことばで大会の幕が上がりました。
 午前の部は各ブロックの合吟、連吟、詩舞と普段の練習の成果が発揮され、午前の最後は昨年度の総合決勝大会の各段位、指導者の部で優勝、準優勝をした女性優秀吟士の吟詠でした。
 午後の部は、最初に式典が開始され、まず、野中清峰会長の挨拶。次に国会議員(参)前大臣、関谷勝嗣先生夫人、続いて(衆)塩崎恭久先生夫人および県下の友好吟舞団体の代表から心のこもったご祝辞を戴いた後、(財)日本吟剣詩舞振興会・河田和良会長、国会議員、松山市長、県下吟界等からの祝電が披露されました。続いて、ブロック会長吟詠、本部役員吟詠、連吟(二部)、詩舞、会長吟詠、県下友好団体女性幹部招待者の吟と詩舞が行なわれ、最後にアトラクションがあり、各県各ブロック工夫を凝らした楽しい出し物で会場を沸わかせました。
 閉会式では、八束麗爽女性局副局長の閉会のことば、加藤清進副会長の万歳三唱で本大会の幕を閉じました。
(広報局)
清吟堂吟友会女性部大会
 
詩吟との出会い
―徳川夢声と宮本武蔵―
(財)評議員・深澤吉翠
 年号も、明治から大正へと移り、そして昭和の御代になりました四年の二月、私はこの世に生を享けました。
昭和 昭和 昭和の子供よ
僕達は 姿もキリリ
心もキリリ
山 山 山なれば
富士の山
 桜の花咲く昭和十年の春四月、当時の尋常小学校一年生として入学しました私は、道々ラジオから流れるこの歌を耳にして、子供ながら昭和の新国民なのだと、生意気にも自負し、口ずさんだものです。今の小学校の教習科目は「国語」ですが、昔は「読方(よみかた)」であったと思います。まず教科書を良く読むこと、いや、無理矢理読まされていたというのが本音でしょうか。まさか、それが詩吟につながろうとは。
 
深澤吉翠氏近影
 
 昭和十四、五年頃、新鋭作家として有名な「吉川英治」の小説「宮本武蔵」が好評を博していました。名講談家「徳川夢声」の、高く低く、強く弱く、そして、速く緩く、朗々と読み上げるその声は、毎週のようにラジオから流れ、小学五、六年生の私の耳を揺さぶり続けます。私は次第に「夢声」の語りに強く心を魅かれてゆきました。
 昭和十二年七月七日、中国北京市郊外廬溝橋に端を発した日中戦争は、ますます泥沼化してゆきます。ABCD(米英支蘭)包囲陣と毎日のように報道され、戦雲急を告げる昭和十六年四月、私は旧制中学一年生として入学しました。
 まず直面したのは「漢文」漢字のみの教本です。当時の漢詩の読み方は「川中島」そして「偶成」。詩文は、教育勅語以上に難しく意味難解。漢文の先生方が意味を込めて朗々と読み上げるその声は、正に名講談家「徳川夢声」のようでした。私は一人密かに漢文の先生を「徳川夢声先生」と心に決め込みました。
 漢文の先生の懇切丁寧な解説により、私達生徒の心は次第に解れて(ほぐれて)ゆきます。それを見てとった満足げな先生は、必ずその詩を嬉しそうに一人で吟じ始めます。すると慣れたもので、『朗々共に相和す生徒の吟声』。
 『小学生時代のうるさい程の読み方。「徳川夢声」の宮本武蔵の朗読。深く意味を解して漢詩を読み上げる漢文の先生』。これが自然に今の詩を吟じる発声、アクセントの元ではないでしょうか。私は今でもそれを信じております。
 昭和二十年八月十五日、不幸にして日本は戦争に敗れました。一時は詩を吟じているような心の余裕はありませんでしたが、経済的にも立派に立ち直り、日本の伝統芸能の詩吟も復活し、ますます隆盛を極めています。
 吟詠を愛好する私は、今でも六十数年前、吉川英治の小説「宮本武蔵」を朗読した「徳川夢声」を、一人昔懐かしく思いおこし、『佳き哉吟詠』と、ほくそ笑んでおります。
 
表紙説明◎名詩の周辺
訣別―梅田雲浜 作
福井・小浜市
 作者梅田雲浜は幕末の尊王攘夷派の志士。文化十二年(一八一五年)小浜藩士矢部義比(よしちか)の次男として生まれ、のち祖父の生家梅田氏の養子となりました。名は初め義質(よしただ)、後に定明(さだあき)と改めました。通称は源次郎、号は雲浜のほか、湖南、東塢(とうう)などがあります。
 文政十二年、京都に上り、若林強斎の望楠軒で以前やはりこの表紙で紹介したことのある橋本左内をはじめ、頼三樹三郎、梁川星巌等とともに学び、親交を深めます。
 嘉永三年、藩の外交や藩政についてしばしば上書したため、同五年ついに若狭藩追放の身となりますが、その後、江戸に赴いて吉田松陰、佐久間象山、藤田東湖、武田耕雲斎などと交わり、尊王攘夷の大義を説き、その先鋒として東西を奔走します。
 
 
 若狭藩追放で一浪人となったため生活が困窮を極めていたのは、この詩にある通りですが、安政二年三月、かねてより病床にあった妻が没し、以後ますます諸藩の志士と往来し、攘夷を策します。同五年、堀田正睦(まさむつ)が上京して日米通商条約の勅許を奏請したのを知り、青蓮院宮(しょうれんいんのみや)に書を奉り、勤皇の公卿に説き、その却下に力をつくします。また、将軍徳川家後継問題では、一橋慶喜を擁して幕閣改造を策動、大老井伊直弼を退けようとします。こうしたことから、安政の大獄で逮捕。幕府の苛酷な糾問にも屈しませんでしたが、脚気を病み、翌安政六年九月十四日、獄中で没しました。享年四十五歳。
 
小浜に関する歴史上の人物を順に案内した『人の駅』。10番目が「志士、梅田雲浜」で誕生の地に建てられています
 
 十年後、明治維新が実現し、雲浜の目的は達成されました。小浜市民はその功績を偉大として、銅像や顕彰碑を市内各地に建立。また、毎年「梅田雲浜顕彰全国吟詠大会」を盛大に開催しています。
 
【梅田雲浜像】市内大手町中央児童公園へはJR小浜駅下車、駅前を直進、徒歩約15分。
【梅田雲浜碑および歌碑】市内青井の小浜公園へはJR小浜駅から徒歩約20分。なお、駅前観光案内所にレンタサイクルがあり、これを利用すると便利です。


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