日本財団 図書館


吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第13回
文学博士 榊原静山
鎌倉、室町時代の展望
―(一一九二〜一六〇三)―【その四】
天皇親政から室町幕府へ
 そこで、地理的に宇治で渡河して大和街道へ出る道と、枚方で渡河して河内街道へ、また一番河下(かわしも)の渡辺橋を渡り天王寺台地へ出る方法の三つの策があるのであるが、常識としては、なるべく河上で相手軍から遠い宇治で渡河するのが賊軍にとっては一番有利であることになるので、楠公はわざわざ河下の渡辺橋付近に三百名ほどの軍を集結して、そこから賊軍へ誘いをかけ、隅田、高橋の軍が、何ぞ三百名の兵などとみくびって、七千の兵全部がどっと渡辺橋に押寄せたので、もちろん楠公の三百の兵は退却し、賊軍はどんどん橋を渡って此方へ攻め込んで来たので、“敵の半渡に乗ず”という兵法で敵軍の半分ほどの軍が渡った時、横から攻めて橋を焼き落とし、半分の軍を殲滅するという方法があるのを楠公はあえてこれを行わず、住吉まで楠公の軍は急ピッチで退却し、そこで先兵から三方に分かれ、賊軍を包囲の体形に移る。
 それとは知らずに賊軍は全員が渡橋し、ただ追跡をして来る。これも本来の兵法として、渡河した賊軍はある程度進んだら一旦止まり、後方部隊が左右に出て横からの攻撃に備えた態勢を整えて進み、さらに止まり、また整えるといったようにして進むべき鉄則を守らずに、ただ突進して来た賊軍を東西南の三面から楠公軍の本隊が攻撃をかけ、正成自身も七頭の馬を乗り潰したといわれるほど、疾風迅雷の如く馳駆して敵を蹴散らして全滅させている。
 そして、その勝ちに乗じて、部下の和田という者が、“残敵を追撃して一挙に京都を屠っては”と楠公に具申したが楠公は“京都という所は攻めるには便で、守るには不便なところである、京都を攻略しても一時の快楽をむさぼるに過ぎない、今や我が軍は天険の要塞金剛山によって天下六十余州の大兵を引き受けて雌雄を決せねばならないのである”といって逃げる敵を追わずに金剛山要塞に引き上げている。
 
陣頭指揮する正成
 
 果たせるかな、北条方は阿蘇時治が指揮する河内、和泉、摂津、美濃、加賀、丹波、淡路の七ヵ国の軍が大手口から山城、大和、伊賀、但馬、伯耆、播磨、近江の兵は大仏高直を大将として、搦手(からめて)の攻撃軍としては尾張、美作、越前、因幡、備前、備中、備後、紀伊、安芸、阿波、伊予の十一ヵ国の兵を名越朝宣を大将として(太平記の記述では三十万七千五百騎と数を挙げているが)、厖大な軍兵が千早の険に対して攻撃をかけるのである。
 
天皇を背に負う名和長年
 
 楠公はあの手、この手の兵略を案じて最後まで千早城を死守し、その間に護良親王の令旨を奉じて九州の菊地武光、播磨の赤松円心、伊予の土居得能などが朝廷のために兵を挙げ、また隠岐島を脱出した後醍醐天皇を守護して伯耆では名和長年が名乗りを挙げ、足利尊氏が官軍につき、新田義貞が北条高時の根拠地鎌倉を攻略し、北条幕府の一族、高時以下八百八十人を自刃させるというような天佑があり、千早城を守り抜いて建武中興の成る、最も大きな原動力となっているのである。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION