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ハンセン病回復者支援事業に引き続き協賛戴きました
 現在、開発途上国におけるハンセン病回復者自立支援事業における「(財)日本吟剣詩舞振興会」を通じてご寄付いただいた額は、二、九二一、四三九円(四月末日現在)となっております。
■募金の振込についてのご案内
 ハンセン病回復者自立支援募金は、本誌最終頁に貼付の「専用振込用紙」をご利用いただき、最寄の郵便局からお振込ください。送金手数料はかかりません。皆さまの温かいご支援をお願いします。
ハンセン病回復者自立支援事業 スタッフ一同
 
四月中にご寄付いただいた方のお名前(敬称略)
〔宮城〕
津田 渓峰
寺嶋 孝子
岡部 恵子
田中喜代子
〔栃木〕
鈴木 凱山
〔埼玉〕
内藤 吟州
井出 貴洲
佐藤 節子
〔東京〕
小林 賢治
小山 風慧
佐山 通鵬
小俣 霜楓
〔神奈川〕
久保 峯國
小山 幸子
成田 峯麗
坂下 殊苑
〔岐阜〕
山田 凰圭
岐阜県吟剣詩舞道総連盟
〔静岡〕
新村 栄子
〔愛知〕
田中ミヨ子
北辰神明流修栄会
伊藤 静尚
酒井 南賜
〔大阪〕
柏原 星芳
佐川 岳彪
門田  栄
〔兵庫〕
横田  勤
橋本 實憲
青柳 芳示
〔奈良〕
秋田 鴬学
〔島根〕
新出谷ひろ子
〔岡山〕
藤井 貞子
〔広島〕
高原 馨風
〔香川〕
宮本 浩風
〔愛媛〕
藤田三千恵
矢野 翠楓
〔福岡〕
竹之内清文
〔佐賀〕
折敷瀬緋露静
姉川 文子
〔大分〕
伊知地隆輝
藤原光伶子
 
〔訂正〕
 四月号掲載の「二月中寄付者」欄の中で、「福岡・翠鳳流朗詠道ちむろ館」は「翠風流」の誤りでした。お詫びして訂正致します。
 
財団法人 日本吟剣詩舞振興会関連行事予定表(平成16年7月)
時間 大会名 開催場所 責任者
4日(日) 9時00分〜17時00分 関心流日本興道吟詩会 全国選抜資格別(五部制)競技大会 泉佐野市立文化会館 泉の森小ホール 藤井芳洲
4日(日) 9時00分〜17時30分 平成16年度 全国吟詠コンクール東日本地区大会 船の科学館・北区赤羽会館 東日本地区連協
4日(日) 9時00分〜17時00分 平成16年度 全国剣詩舞コンクール中部地区大会 名古屋港湾会館 中部地区連協
4日(日) 9時30分〜18時00分 平成16年度 全国剣詩舞コンクール九州地区大会 諫早文化会館 九州地区連協
11日(日) 9時00分〜17時00分 平成16年度 全国吟詠コンクール四国地区大会 善通寺市民会館 四国地区連協
11日(日) 9時00分〜18時40分 平成16年度 全国剣詩舞コンクール東日本地区大会 北区赤羽会館 東日本地区連協
11日(日) 10時00分〜17時00分 平成16年度 全国剣詩舞コンクール中国地区大会 倉敷・玉島文化センター 中国地区連協
18日(日) 9時00分〜17時00分 平成16年度 全国吟詠コンクール中部地区大会 名古屋港湾会館 中部地区連協
18日(日) 9時00分〜17時00分 平成16年度 全国吟詠コンクール中国地区大会 山口・南総合センター 中国地区連協
18日(日) 9時30分〜18時00分 平成16年度 全国吟詠コンクール九州地区大会 メートプラザ佐賀 九州地区連協
18日(日) 10時00分〜20時30分 平成16年度 全国剣詩舞コンクール近畿地区大会 尼崎市総合文化センター 近畿地区連協
19日(祝) 9時30分〜16時00分 平成16年度 全国剣詩舞コンクール四国地区大会 松前総合文化センター 四国地区連協
25日(日) 9時30分〜16時30分 平成16年度 全国吟詠コンクール北海道地区大会 アーバンホール7F 北海道地区連協
23日(金)〜25日(日) 第2回青年吟剣詩舞道大学 湘南国際村センター 財団本部
 
六月NHKラジオ
FM吟詠放送
「邦楽のひととき」
●放送日時
六月十七日(木)午前十一時OO分〜同三〇分
●再放送
六月十八日(金)午前五時二〇分〜同五〇分
●吟題と出演者
一、和歌・我が宿の (恵慶法師)
我が(わが)宿(やど)の 外面(そとも)にたてる
楢(なら)の葉(は)の しげみにすずむ
夏(なつ)はきにけり (繰返し)
藤樹書院に過る (伊藤東涯)
〈吟〉山中 梅鈴
二、和歌・雨そそぐ (藤原俊成)
雨(あめ)そそぐ 花橘(はなたちばな)に
風(かぜ)過ぎて(すぎて) 山(やま)ほととぎす
雲(くも)に鳴く(なく)なり (繰返し)
後夜仏法僧鳥を聞く (空海)
〈吟〉宮田 実龍
三、独柳 (杜牧)
鹿柴 (王維)
〈吟〉伊藤 契麗
四、海南行 (細川頼之)
河内路上 (菊池渓琴)
〈吟〉白波瀬緑斎
五、金陵の図 (韋荘)
銷夏の詩 (袁枚)
〈吟〉明神 春岳
六、磯原客舎 (吉田松陰)
〈吟〉宮野鶴誠
 
吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第12回
文学博士 榊原静山
鎌倉、室町時代の展望
―(一一九二〜一六〇三)―【その三】
天皇親政から室町幕府へ
 本稿ご執筆の榊原静山先生(本名・榊原帰逸)は、去る三月五日、肺炎のためご逝去(享年九十四歳)されました。本誌には昭和六十一年四月号から今日まで、十八年間にわたりご執筆をいただきました。現在、掲載途中の連載につきましては、既にお預かりしている原稿の区切りまで、引き続き掲載させていただきます。
 榊原静山先生の永年にわたる吟剣詩舞道界に尽くされたご功績に深く感謝いたしますとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 楠公が後醍醐天皇に召されるについては、一つの夢物語が伝えられている。真偽のほどは別として味わってみよう。
 後醍醐天皇が元弘の変に破れて笠置の行在所におられた時、ある夜夢の中で、『天皇の御座の南に大きな樹があった、そこへ二人の童子が現れて涙を流していうことには“天下は広くとも天子の五体の安住し給う所は、唯この大樹の南に向いて栄えている木の枝の下があるのみであります”と申し上げた』。天皇は夢がさめて判断されるには、木の南にしたがうは楠という字である。さては楠という者がいて、朕を助けようとするか、と悟り、早速山僧を呼んで“この近郷に楠という武士がいるはずであるが”と申したので山僧は“河内の国の金剛山の麓に楠多聞兵衛正成という兵法、軍略にかけては何者もおよばない名将がおります”と申し上げた。天皇は非常に喜こんで、藤原藤房卿に命じて楠公のもとへ使者を遣わした。
 藤原藤房は従者数人を連れて楠公のもとへ行き、このよしを楠公に伝えると、楠公は恐縮、かつ欣喜し、“弓箭とる身の面目何事かこれに過ぎん”と早馬に鞭打って十六里の道を一気に馳せ参じたといわれている。
 この逸話は、天皇が前から楠という者を知っていて、夢に托して正成を呼び出したと解釈するむきもあるが、いずれにしても、乃木大将が明治天皇の仁愛に感泣して、一生を忠君愛国の熱情に生きたと同じように、楠公父子は後醍醐天皇の信頼一途に生きた武将といえよう。
 
忠君愛国の熱情に燃ゆる楠公
 
 このようにして、元弘元年(一三三一年)楠正成は三十八歳にして後醍醐天皇の、南朝の旗のもとで勤王の兵を挙げるのである。爾来、千早城、赤坂城、天王寺の戦などですぐれた軍略を用い、諸国の官軍興起の原動力になっている。
 楠公は幾度も戦っているが、当時としてはまことに面白い戦略を使って成功している。例えば赤坂の城を奪回した時は、この城を守っていた敵方湯浅孫六の兵隊達が付近の民家から兵糧を買い求めて牛馬の背中に積んで運んで行くのを挟撃し、兵糧を捨てて逃げて行く敵兵達を追わず、牛馬だけを奪って兵糧の入っている俵の中味を取り出し、その代りに鎧や武器を入れて牛馬に負わせ、倒れている敵兵の着物をはいで、部下の屈強な者に着せ、その者が牛馬の手綱を取って走り出し、別の兵隊がその牛馬の兵糧を奪おうとして追いかけるように見せかけて、城門の近くへ行く、敵兵はそれとは知らず、大急ぎで門を開いたので追われる者も追う者も一気に城内へなだれ込み、城内に入った先頭の者達は俵から順々に鎧、兜を取り出し、身につけて城内を斬り廻り、周章狼狽して逃げまわる敵を城の内外から挟撃して湯浅孫六を降伏させ、以来湯浅孫六は楠公の家来になっている。
 また千早城を中心に、金剛山要塞として、楠公は北条方の全日本から集まって来る大軍を引き受けて、その何分の一かの兵員で常に戦を遂行するので、普通の考え方では数の上で到底勝ち目のあるはずのない合戦を、楠正成の智謀によって勝っている。
 四天王寺の戦といわれる淀川渡河作戦もその一つだった。元弘三年の一月、賊軍の将隅田次郎左衛門と高橋又四郎の連合軍の一隊七千が楠公討伐に向かって来た。京都から金剛山要塞を攻めるのには、どうしても淀川を渡河しなければならないので、この渡河地点が問題で、刀や槍で戦うこの時代では大きな河を渡る作戦というのは非常に大変なことで、その拠点いかんで、勝敗が決する。


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