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1998年:
パプアニューギニア大津波災害からの教訓と防災
防災・危機管理ジャーナリスト(株)まちづくり計画研究所
所長・技術士 渡辺 実(わたなべ みのる)
まちづくり計画研究所とは
 まちづくり計画研究所(machiken)は、平成元年に設立した都市防災コンサルタントです。安心・安全なまちづくりを基軸にして、国・地方公共団体・民間企業・市民団体などから委託を受け、調査・企画・計画立案などコンサル業務を行っている。
 10年前の阪神・淡路大震災では、被災都市神戸市の防災計画、復興計画などに関わり、地震直後から神戸市の行政支援を続けている。現在も、この阪神・淡路大震災の教訓を踏まえ、次の大震災へ向けて国の防災機関、全国の自治体、民間企業へ提言・講演活動を行っている。
 また、「見える防災」をキーワードに「安心缶」などをはじめとする防災グッズの企画・開発・販売を実施している。併せて、国内・海外の主要な地震災害、津波災害、火山災害、台風・ハリケーンなどの自然災害や、9.11米国同時多発テロなどの大規模事故現場、大規模火災などの現地調査も行い、それぞれの災害・事故から学んだ教訓を提言している。
パプアニューギニア大津波 災害調査の動機
 1998年7月17日午後6時45分頃(日本時間午後5時45分頃)、パプアニューギニア(以下、PNG)北部のアイタペ以西沿岸を地震による大津波が襲い、2,500人あまりの死者と、6,000人と伝えられる行方不明者が発生した大災害になった。被災地周辺は、旧日本軍兵士約13万人が飢えとマラリアで悲惨な死を遂げた地域に近く、毎年、遺骨収集墓参団が訪れる場所でもあり、日本とはつながりが強い地域である。
 このPNG大津波災害が発生する5日前の7月12日は、奥尻島を大津波が襲い死者行方不明198人を出した北海道南西沖地震から5年目にあたり、津波災害の驚異を再認識していた時期に、日本から約5,000km離れたPNGで今回の大津波災害が発生した。
 こうした背景から、筆者は、静岡第一テレビ(SDT)の特番制作クルーとともに8月5日に成田を発ち、シドニー経由で6日にPNGの首都ポートモレスビーに着いた。翌7日、ウエワクから被災地(アイタペ・アロップ・シッサノ・ワラップ・ラモ・プア・テレス・ウエワクなど)に調査に入り、11日に帰国した。
PNG大津波災害調査の概要
 PNGは、1973年に独立し立憲君主制で、人口約570万人。鉱業、農業、林業が主産業で、海に囲まれた自然豊かな美しい国である。本調査では、(1)被害状況の調査、(2)政府などの行政対応・市民対応、(3)なぜ、生き残れたのか、(4)わが国の津波対策への教訓、などを主な被災地調査の視点とした。
 
15mの大津波が襲ったシッサノラグーン
 
(1)15mの大津波が襲ってきた
 7月17日午後6時頃、アロップ沖合30km(当初発表された震源は100km沖合)の海底3〜4km付近でM7.0の地震が発生し、アイタペから以西30〜35kmにわたる沿岸へ津波が集中して襲った。多くの被災者から「最初は波が引いて、地震から10秒から5分以内に津波が押し寄せ、その後2回の津波が襲ってきた。その時ジェット機のような音を聞いた。また、地震の揺れは2回発生した」との証言を得ている。
 現地に入った日本調査団が計測した津波高は、シッサノラグーンで最高15m、平均9mにも達している。M7規模の地震で、15mもの規模の津波がなぜ発生し、さらに津波の襲来地域が30kmの狭い範囲だったのかは謎で疑問が残る。
 調査団は「被災地は遠浅の海岸で、沖合で急に深さ3,000〜4,000mのニューギニア海溝になり、沖合約30kmでM7の海溝型地震(底角の逆断層または広角の正断層と推定)が発生し、シッサノラグーンの西に流れるアーノルド川などから運ばれた大量な土砂が海底に堆積し、この土砂が地震で海底地滑りを起こした。地震と海底地滑りによって津波が増幅され、15mという大津波を発生させた」と報告している。
(2)被災状況
 8月11日現在、政府発表の被害状況は、死者2,134人、行方不明3,500人となっている。死者の多くは、津波にのみ込まれて助かる術を持たない弱い子供や老人が多い。特に犠牲者が多かったワラプ(死者1,071人、負傷者369人、生存者1,460人)やアロップ(死者863人、負傷者0、生存者1,404人)では、津波による死亡率が約40%と非常に高くなっている。
 8月8日、アイタペの現地災害対策本部の許可(PNG政府は7月24日にシッサノラ・アイタペを含む被災地一帯を封鎖した。遺体収容を断念し、防疫のため住民の立入禁止規制がとられていた)をとり、政府がチャーターしたヘリコプターで最大の被災地であるシッサノラグーンへ飛び、アロップ洲の中央部に降り立った。
 上空からみるシッサノラグーンは、九十九里浜や日本平を思わせる美しい浜辺が続く静かな美しい海岸線であった。大津波が襲ったアロップ、ワラップ、シッサノ上空では、ヤシの木がなぎ倒され、集落が跡形もない情景が目に入り、津波の凄まじさを実感した。
 ラグーンの水面には、流された家屋の残骸や放置されて浮いている遺体と思われる姿が見受けられた。政府は遺体収容を断念したため、ラグーン水面や海上に浮いている遺体を防疫面から、また犬や鮫に食べられる前に水葬するため、上空からライフルで遺体を沈めているという話を聞いた。残酷極まる話である。
 ラグーン湖側には多くの集落があったが、われわれの目の前にはまったく何もなく、ラグーン湖内には、多くの家屋の残骸や子供や大人の遺体が浮いている。あの5年前の奥尻島青苗地区を思い出す。ラグーン湖側に、局所的に深さ1m以上の津波による浸食箇所が見られる。想像を絶するエネルギーをもった津波が陸上に遡上し、一瞬のうちに人も家も何もかも波に巻き込み、このラグーン湖内へ全て流し去ってしまい、跡形もなかった。
 ここは前が海で背後が湖という、全く逃げる高台がないところである。この津波の流速は秒速約9mで、過去の津波調査で推定された値の3倍以上に相当する。
(3)証言:なぜ大津波から生き残れたのか
 被災地の避難所などで生存者から「なぜ、この大津波から生き残れたのか」についてインタビューを行った。以下にその主な証言を記す。
○「家族のことも何も考えずに、一人で必死になって泳いで生き残った」○「カヌーに乗って、転覆しそうになったが陸にたどり着いた」○「犬を抱いて一緒に3km泳いで助かった」○「ニワトリを抱いて泳いでいたらスーツケースが流れてきてこれにつかまって助かった」○「ヤシの木に必死に登って助かった」○「流れてきた屋根につかまって泳いだ」
 まさに、岩手県に伝わる津波避難の厳しい教訓である「津波てんでんこ」(後述)が、PNGで実証されていた。
 
ラグーンを埋め尽くしたガレキや遺体
 
PNG大津波災害からの教訓
(1)津波防災対策にリアリズムを!
 津波災害は数十年、数百年に1回という長い時間的なスパンがあり、なかなか津波災害を実感し、津波防災対策を現実視することが難しい災害である。
 しかし、われわれは奥尻の大津波災害を共有しているはずである。それでも、阪神・淡路大震災で幸いにも津波災害が発生していないことから、津波防災対策が後回しにされてきた傾向が強い。
 PNG津波災害で、シッサノラグーンで見てきた、津波で何もかも失ってしまう災害の驚異をあらためて直視する必要がある。そして、近い将来に発生する東海地震、東南海地震、南海地震などの海溝型地震では、巨大津波が瞬時に襲ってくる。決して、PNG大津波災害は他人事ではない。
(2)津波災害文化の伝承・教育を!
 津波からの救命対策の原点は、沿岸部にいたときや沿岸に生活している人々が「地震、即津波」とイメージし、迅速に安全に避難できるかにかかっている。津波警報が間に合わない可能性もある。過去に何度も大津波を経験している三陸地方に「津波てんでんこ」という言い伝えがある。
 これは、「津波が来たら、親も子供も何もかも見捨てて、テンデンバラバラに逃げなければ命は助からない」という津波災害から命を守るための非常に厳しい言い伝えである。
 津波災害文化の伝承のために、教育課程のなかに津波災害文化を学ばせるカリキュラムを構築し、義務教育の過程で子供たちにこの重要な災害文化を繰り返し教育していく必要がある。現在は、教科書から消えてしまった「いなむらの火」の復活を、ぜひ実現させなければならない。
 
避難所を調査する筆者
 
(3)海人に訴えたい!
 先にも述べたが、近い将来われわれが経験する巨大地震では、必ず大津波が襲ってくる。海で働く人々は、このことを頭にたたき込んでおいてほしい。津波は、引き波、押し波だけではなく、音もなく急激に海面上昇する津波もある。また、津波第1波だけではなく、第2波、第3波と連続して襲い、第2波以降のほうが第1波より大きい場合もある。
 津波襲来時間によっては、船舶を沖合に出すこともできない場合もあり、無理して操船すれば転覆・破壊の危険もある。津波災害の後では、港に膨大な材木などの浮遊物が押し寄せ、沈んだ車両などによって港の水深が浅くなり、入港が不可能にもなる。
 こうした、津波災害の特殊性や怖さを十分に認識してほしいものである。
※「パプアニューギニア大津波災害調査結果」:http://www.machiken.co.jpに掲載


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