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支援で求められるものは
 取材に同行してくれた町役場の総務課に勤める木村孝義(きむらたかよし)主幹(44歳)は、当時の災害後に立ち上げた復興対策室で「まちづくり計画」に携わった1人だ。
 「災害後に寄せられた救援物資や義援金、そして被災者支援に駆けつけてくれたボランティアの皆さんの活動には、感謝の気持ちでいっぱいです」と話す彼に、あえて「今後のための課題」について聞いた。
 
「町は計画から2年近くも早く復興した」と話す木村さん
 
 1点目は救援物資。その多くは衣類だったが、半端な量ではなかった。災害発生後3日目ほどから被災者に配られだしたが、ボランティアが総出で被災者の寸法に合わせ1人5〜6着用意しても、なお多くが余剰となった。島内には、これらの保管場所はなく、やむなく奥尻町では、北海道側の近隣町村にお願いし、保管を引き受けてもらわねばならなかった。
 なかには、被災者が受け取るのを躊躇するような衣類や「どうしてこれが被災者に必要なの」と首をかしげる不用品も混在していた。一方、ありがたかったのは女性の生理用品だったという。
 2点目は、ボランティアの受け入れ問題。被災者収容がやっとのなかで、ボランティアの多くは自分の宿営装備を持参していない。なかには、ホテルの予約を依頼してくる者もいる。
 ボランティアは、被災者に感謝される存在だが、事前に現地状況を把握し、どう現地で貢献するかを考えることも必要だ。また、被災状況に応じて復興対策本部の要請に応じて機能的にボランティアを行動させるリーダー的存在も必要だ。
 奥尻町では、救援にきたボランティアの寝泊りするスペースを、同施設内の被災者用のスペースを割いて設けた。
被災から復興に向けて
 災害後、島に駐屯している航空自衛隊の給水車がフル稼働したほか、島外からも自衛隊員や潜水などの専門的な救助技術を持つ海上保安庁の特殊救難隊員など多数が入島し、陸海両面で救助捜索活動に入った。また、奥尻島での災害状況がマスコミによって全国に報道された直後から、さまざまな救助機関、民間の企業や団体、そして多くのボランティアが次々と島に救援に駆けつけ、住民へのサポートを懸命に続けた。
 全国から多額の義援金と膨大な量の救援物資が寄せられ、国もまた、いくつもの補助事業を進めることにした。こうして、壊滅的被害を受けた奥尻町は、「災害に強い豊かさを実感できる、新しいまちづくり」をめざして立ち上がったのである。
 全国から寄せられた多額の義援金によって「災害復興基金」を設立し、被災者の自立復興を援助した。水産庁の補助事業「漁業集落環境整備事業」が青苗や稲穂地区で、また奥尻町の単独事業「まちづくり集落整備事業」が初松前地区で進められた。
 いずれも、津波の高さに対応できる防潮堤の設置や堤の背後に盛土しての宅地整備、海岸線や集落内道路の改良、生活廃水処理施設の設置、避難場所や防災安全施設の設置といった防災・安全面に配慮した「まちづくり計画」に基づくものであった。
 また、国土庁の補助事業「防災集団移転事業」が青苗の岬地区で進められ、その場所は公園に整備(非住宅地区)、近くの高台地区に宅地を造成し住民を集団移転させた。
 この取り組みの結果、被害を受けた地区は新しい町並みに生まれ変わった。「被害復興基金」からの助成が、被災者の住宅建設にも力を発揮した。防災対策としての防潮堤も整備され、北海道で初めての津波水門も島内3カ所の川に設置された。また、緊急時の避難路も整備された。
 津波で完全流出した青苗の岬地区は、徳洋緑地公園となった。奥尻地区の崩壊崖地は、大壁画を設置して整備された。小学校も一階を空間構造にしたり、土台を盛土で高くする工夫が施された。被災漁船はFRP(強化プラスチック製)船となった。そして、災害情報をいち早く伝えるための防災行政無線施設が改修された。
 
一部岸壁上に避難用の「望海橋」が造られた青苗漁港
 
 津波によって打ち揚げられたウニなどの海の資源は、しばらく姿を消したが約5年を経た後に、やがて回復した。
 
島民の居住地区には防潮堤が整備された
 
津波館建て津波の怖さ後世に
 奥尻町では、地震と大津波の災害による鎮魂への祈りと、悲しいことが再び起きないことを願って津波館を建設し、その恐ろしさや災害からの教訓を後世に伝えている。
 館内は、奥尻島の歴史紹介をはじめ、犠牲者の鎮魂を祈った198のひかり、災害時の状況を写真で伝えるパネル展、誕生〜災害〜復興までを再現した立体模型など、7つのテーマで展示物が設置され、入館者に職員が丁寧に説明してくれる。
 圧巻なのは、地下一階にある3D映像ホール。当時の地震や津波による災害の様子と復興までの記録を臨場感溢れるDVD映像で伝え、私たちに「地震や津波にどう向き合うべきなのか」について、考えさせてくれている。
町長が全国に復興を宣言
 地震・津波による壊滅的被害から4年8カ月が経過した1998年3月17日、当時の奥尻町長の越森幸夫氏は全国に向け、感謝を込めて次のように述べ、北海道南西沖地震・津波からの復興を声高らかに宣言した。
 「1993年7月12日午後10時17分、奥尻島民にとっては永遠に忘れることのできない日となった。
 自然の恵みにつつまれた平穏な島のたたずまいが、大地の鳴動とともに一瞬にして廃墟と化したあの日、あの時の悪夢を・・・。
 焦燥と悲惨さにあえぎ、さながら“瓦礫のマチ”をさすらった島民が、その再起、再生の悲願に燃え立ち上がったのは、全国から差しのべられた救援のあたたかい手のぬくもりであり、島民にとっては決して忘れることのない人間の愛の尊さだった。
 人は苦しみ、悲しみを時として忘却の彼方へ追いやる。しかし、家族や友人など198人の尊い人命を失った冷厳な事実を、私たち生きながらえた島民は、長く後世に語り継ぐ責務がある。
 私たち島民は、あの辛さ苦しみに耐え、希望と勇気を今、21世紀の新しいスタートに向け、未来『奥尻創造』の大いなる理想に英知と総力を結集することを誓い、ここに完全復興を宣言する」と・・・。
 
II 2003年:十勝沖地震と津波のなかで
 人口9,000人ほどの広尾町は、北海道十勝管内の最南端にある小さな町。町の東側は太平洋、西側は日高山脈がそびえる豊かな海と雄大な自然に恵まれた町だ。商店街は、十勝港の低地から50mほどもある高台に海岸線に沿って並び、民家の多くはその周辺から西(山側)へと伸びる。港にはさまざまな関係の工場や事務所が多く、その南端に50軒ほどの民家が連なっている。
 十勝沖地震が発生したのは、2003年9月26日の早朝04時50分。震源は釧路沖(N41.7度 E144.2度)、震源地の深さは約60kmでマグニチュード7.8。北海道の太平洋沿岸の胆振・日高・十勝・釧路・根室の管内を中心に、震度6弱(烈震)〜5強(強震)の地震を記録した。
 この地震で、北海道内における死者はなかったが、十勝川河口付近では釣りをしていた2人が行方不明となり、負傷者は847人に及んだ。また、多くの住宅が全壊した。特に、苫小牧市では出光興産北海道製油所のタンクが出火し、4日間に渡って上空に黒煙と炎を吹き上げた様子がマスコミによって全国に報道された。港では、液状化現象が広範囲に見られ、場所によっては岸壁の一部が沈下した。
 国道や道道の通行止め、JR根室線・日高線・釧網線での運転見合せ、送電ストップ、断水といったライフラインにも影響が出て、自衛隊が隊員約250人を出動させ、給水や苫小牧への消化剤輸送にあたった。
 気象庁では、地震発生から6分後の04時56分に、北海道の太平洋沿岸の東部と中部に津波警報を、また北海道の太平洋沿岸の西部や青森県・岩手県・宮城県・福島県に津波注意報を出し、避難や注意を呼びかけた。北海道の太平洋沿岸では避難勧告で約6,000人余りが避難、また約1,000人が自主的に退避した。
 津波の第1波は、地震発生から16分後の05時06分〜27分にかけ、北海道の太平洋沿岸を襲った。最大波は日高管内の浦河で1.3m、釧路管内の釧路で1.0m、根室管内の花咲で0.9mを記録した。
 津波によって、北海道の太平洋沿岸の港では、港内係留や上架中であった漁船数隻が転覆や横倒しになったほか、港に駐車していた車両数10台が高波によって海中に流失した。これら地震と津波による被害額は、約274億円にのぼるという。
津波はジワジワせりあがった
 広尾町から車で20分ほど南の音調津(おしらべつ)に夫婦2人で住み、コンブ漁を生業としている杉崎民治さん(74歳)は、早朝の浅い眠りのところを突然の激しい横揺れに襲われ、布団から飛び起きた。揺れの程度や家の軋み、落ちる小物類などの状況で「これは津波がくるな」と直感した。
 地震のおさまるのを待ったが、揺れはしばらく続いていた。やむなく、杉崎さんは着替えて外へ。この時、防災無線の受信機は地震が震度6弱であったことを伝えていたが、津波には触れていなかった。
 
「津波は腰まできた」と話す杉崎さん
 
 音調津漁港へは、自宅から東に200m余りしか離れていない。漁港南側の突端にある船揚場には、自分の持ち舟を含め近所の漁業者の舟10隻余りが揚がっていた。「舟をさらに上に揚げ、舫(もやい)でしっかり固定しなければ」と杉崎さんは、自分の軽トラックで漁港に向かった。
 杉崎さんは、過去のチリ地震や十勝沖地震での津波を体験している。頭には、「大きな津波ほど、襲ってくる直前に海水が海岸からはるか遠くまで引いていく」のを記憶していた。
 到着が早かったのか、港内に人はいなかったが、ほどなく消防車がスピーカーで地区の住民に津波警報と避難を呼びかけた後に、消防署員数人が港に駆けつけ、海面を確認していた。やがて、舟揚場にも近所の同業者仲間が数人やってきた。海面は普段とまったく変わりない状況だった。
 杉崎さんは、自分の舟の近くに車を止め、舟の舳先につけてあるロープを車に結びつけ、引き揚げ作業に取りかかった。昆布漁に使う小型の舟なので、作業は程なく終わった。海面は依然、変化がない。「まだ、津波がくるまで時間があるな」と思った杉崎さんは、今度は隣で舟を揚げる作業中の仲間を手伝い始めた。
 しかし、この手伝いの間に、海面は下がることもなく波音も立てずに「ジワッ、ジワッ」とせり上がってきた。杉崎さんが「オヤッ!」と思った時は、せり上がった海水は勢いを増し、アッという間に腰の高さまでになっていた。
 小高い通りの道路まで避難した消防隊員や避難者たちが、「こっちに、急いで!」と叫んでいたが、腰まで海水に使った状況では容易に身体を動かし進むことができない。「このままで波が引けば、その力で海の中に持っていかれるかもしれない」との不安もわいてきた。
 その時、手伝っていた舟の反対側の近くで同じような作業をしていた別の仲間が、浮き上がった舟(船外機付)の舳先についたロープを肩で引っ張りながら杉崎さんの傍に現れ、「この船で一緒に逃げるべ」と声をかけてくれた。3人はその舟に這い上がるように乗り込み、船外機のエンジンを始動させ、高台の道路まで海面となった100m余りの距離を一気に舟を走らせた。
 
○津波を甘く見るな
 道路まで避難した杉崎さんは、津波がおさまるのをその場で待った。海面が岸壁を超えて溢れてきたのはこの一度だけだった。やがて津波がおさまり、自分の持ち舟の無事を確認した後、軽トラック車を動かそうとエンジンをかけたが、エンジン部が冠水した車は動くことはなかった。
 仕方なく杉崎さんは「とにかく着替えなければ」と下半身ずぶ濡れのまま、仲間の車で自宅に戻った。奥さんは、消防車の避難の呼びかけを聞いて、夫を心配しつつもその帰りを待つことなく、別のトラックで西(山側)に建つ総合センターに避難した。
 杉崎さんは「津波も、状況によって前兆や襲ってくる程度も違うということを思い知らされた。また、船という財産を守ろうとして、命を危うくした。津波を決して甘く見てはいけない」と、経験を過信することの危険について反省を込め訴えた。
 
津波くるなか漁協車両を移動
 広尾漁業協同組合の管理部に勤める久保田芳信(くぼたよしのぶ)部長(54歳)とその管理部の経理課に勤める玉川晃一(たまがわこういち)課長(42歳)も、白々と明け始めた早朝、浅い眠りにいたところを突然の激しい横揺れに襲われ、布団から飛び起きた。
 
十勝港南側の風景(右側、横向きの建物が広尾漁協)
 
久保田部長
 
玉川課長
 
 広尾町では、場所によって地盤の固さに違いがあることから、被害も相当の程度差があったようだ。高台の比較的西(山側)に建っている久保田さんの住宅では、揺れる割にコップや小物類が落ちるといったことはなく、逆に町の商店街に近い玉川さんの自宅では、軽度の被害も出た。
 備え付けの受信機が地震発生を伝えるなか、久保田さんは着替えを素早く済まし、自宅から自家用車で漁協事務所に向かった。途中、消防署がサイレンで津波がくる合図の連続長音をけたたましく鳴らしていた。
 いつも通勤している高台から港に通じる坂道にきた時、その道はすでに消防署員によって封鎖されていた。久保田さんは署員に漁協に向かう理由を手短に説明、その制止を振り払うようにして坂道を下った。
 漁協事務所に到着し、事務所2階から見る港内の水面は、普段の状態と変わりない。
 南側外防波堤と漁協前から小型船舶数隻を上架している造船所を結ぶ内側岸壁の間を、定置網や底引船の関係者ら多数が車で行き来していた。
 まもなく、玉川さんも事務所に駆けつけてきた。2人とも過去の津波の状況は知っていた。「津波による海水をかぶれば、漁協1階の車庫に格納している車がオシャカになるぞ!」。2人は、直後に集まった職員数人とともに、車庫内の車を漁協の傍から高台に続く坂道の上の方に移動し始めた。
 何台かの移動を終えた時、何波目かは不明だったが、岸壁からいつの間にか溢れ出し、高さ1m以上となった海水が漁協事務所1階の下部を超えて迫ってきた。
 車庫には、まだ3台ほどが残っていたが「もう限度だ」と判断した久保田さんは、「これ以上は危険だ。ご苦労さんだった。後は避難してくれ」と職員に指示し、彼らとともに高台に避難した。2人の足は、くるぶしまでぐっしょりと海水に濡れていた。
 この津波で、漁協の車を含め車51台が冠水、そのうち港の岸壁周辺に駐車していた車3台が海中に没したが、幸いにも犠牲者は出なかった。
 2人は津波警報が鳴るなか、漁協事務所に駆けつけたことに、「今回の津波には、これまでの経験則からさほど恐怖を感じなかった。また、漁協職員として津波状況の把握や適切対応への責務もあるし、年1〜2回の訓練で万一の場合の避難道も知っていた」と述べながらも、「やはり、早めの避難が第1。津波を甘く見て、いつもと同じ程度だろうと決めつけることが、大きな被害につながるのかもしれない」と当時の状況を振り返った。
 
被災後1年、広尾漁協付近で補修中の沈下岸壁
 
おわりに
 地震や津波に備え、「事前にどんな物を備えておくべきなのか」、「襲ってくる初期の段階でどう行動すべきか」、また災害発生後の「被災者に対する支援のあるべき姿」とはどのようなものなのか。良否を含め、検証できる過去例の一部がここにもある。
 関東〜四国にかけて地震や津波による大きな災害発生が予測される今こそ、関係する機関や団体は、国民に初歩的対処や被災時の支援のあり方などをさらに明示し、万一の場合の犠牲者発生の減少をめざし、一体となり警鐘を鳴らすべきであろう。


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