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津波について考える
 2004年10月23日に震度7の新潟県中越地震が発生した。1,000戸をはるかに超える家屋が全半壊したほか、陥没や土砂崩れによって道路や川が寸断されるなど、大きな被害を受けた。地震発生から10日が経過した時点での被災状況は、死者36人・負傷者2,432人に及び、なお、余震が続いている。津波対策をテーマとした今号の取材を終え、その編集校正段階での発生だった。津波の発生はなかったものの、改めて地震の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。
 東海・東南海・南海で、地震や津波による大災害が近い将来、発生するといわれている。8月下旬に政府の地震調査委員会は、相模湾から房総半島にかけての相模トラフで今後30年以内に関東大震災型(マグニチュード8級)の地震発生は切迫していないとする一方で、ひとまわり小さい地震が南関東で発生する確率は70%程度とする評価を発表し、対策の必要性を訴えた。「防災の日(9月1日)」には、全国で約100万人(内閣府調べ)がさまざまな訓練に参加し、国民の関心の深さを示した。そんななかでの新潟県中越地震であった。
 いまや、国際語となっている津波は、それに関する資料も多く、さまざまな対策が研究されている。しかし、一方で船舶そのものに対する影響などの調査研究は意外に少ない。今号では、海上保安庁が日本海難防止協会に委託し、調査研究委員会を設置して「津波が予想される場合の船舶の安全確保」での調査や検討結果などの紹介を中心に、津波体験者の思いや教訓、関係機関の津波に関するさまざまな広報活動、企業の津波をキャッチしようとする取り組みなどについて探ってみた。
 
 
体験者に聞く津波の恐怖と避難への備え
I 1993年:北海道南西沖地震と大津波によって
 住民4,000人ほどの“北の沖縄”と呼ばれる奥尻島。豊かな海の幸と自然林に恵まれ、その自然と海の幸を満喫しようと、夏ともなれば全国から多くの観光客が訪れる。9月下旬、筆者が空路で訪ねた時、島は秋晴れのなかで愛称ぴったりの紺碧の海に囲まれていた。
 奥尻島を地震が襲ったのは、1993年7月12日の22時17分。震源は、奥尻の北方沖約50kmで、深さ34kmマグニチュード7.8という、日本海側の地震として観測史上最大のもの。当時、奥尻島には地震計がなかったために正確な記録はないが、震度6(烈震)以上と推測され、地震によって島全体が70〜80cm沈んだといわれている。
 田畑や道路は地割れや陥没が生じ建物が倒壊するなど、各地区で大きな被害がでた。奥尻地区では崖地崩落の土砂がホテルや灯油備蓄タンクを押し潰し、島外からの宿泊客29人が犠牲となり、灯油が流出する大惨事になった。
 札幌管区気象台は、22時22分に北海道の日本海沿岸に大津波警報を発表し、住民に避難を呼びかけた。震源に近いこともあって、奥尻島には地震発生から3〜5分後に津波の第1波が襲ったとみられており、到達した津波の最大の高さは、藻内地区で29mにも達している。
 北端部の稲穂地区、南端部の青苗地区、西海岸の藻内地区などでは、考えられない高さの津波で集落が一瞬のうちに壊滅状態となり、人的被害の多くはこの津波によるものだったという。
 また、青苗地区では地震・津波の直後に火災が発生。見る見るうちに広範囲に延焼し、翌13日朝に鎮火するまで集落を焼き続けて被害に拍車をかけた。災害における奥尻島の人的被害は死者172人、行方不明26人、重軽傷者143人に及び、被害総額は約664億円にも達した。
大津波から奇跡の生還
 「津波に飲み込まれたときは、終わりかと観念しかけたよ」と当時の状況を話すのは、稲穂地区の北端に住み、民宿「いなほ」を経営しながらウニやアワビ漁に従事している水野哲雄(みずのてつお)さん(71歳)。家族は、母親と本人と奥さんのほか、息子さん家族5人の計8人という大所帯だ。
 
津波に飲み込まれた状況を話す水野さん
 
 当時のその日の夜は風もなく、海も穏やかに凪いでおり、息子さんは、イカ釣り漁船で漁に出ていた。
 水野さん夫婦は、海側に建つ民宿での仕事を片づけ、道路を挟んで向かい(山側)の自宅に22時頃に戻った。家族はすでに就寝していた。一服した後、水野さんは「明日も早い。もう寝るべ」と奥さんに声をかけ、茶の間から寝室に向かおうとした時に、地震がきた。
 それは、「ドン・ドン・ド〜ン」と島の地底から3回ほど突き上げるような大きな地響きに続いて、「グラ・グラ」揺れる強烈なものだったという。最初のうちは「島が爆発した」と思った水野さんだが、激しい揺れに変わってから地震だと気づいた。
 飾り棚や茶箪笥の上の置物や写真立てなどが踊るように床に落ちてくる。すかさず、奥さんに「普通の地震じゃねえ。みんなを起こして山の方に逃げろと言え」と叫ぶと、ギシギシと軋む窓を無理やりこじ開け、そこから外に飛び出した。
 
○海鳴りのなか船揚場へ
 激しい揺れと同時に、電気もストップした。暗闇に飛び出すと、地面の揺れが尋常でないことを訴えていた。静かな夜の空気のなかで、これまで聞いたこともない「ゴ・ゴー」という異様な海鳴りが響いていた。
 揺れの続くなかを民宿に戻った水野さんは、「地震だ。早く起きて逃げれ!」と叫び、寝ていた宿泊者の大学生ら3人を踏みつけるようにして叩き起こした。
 この時、水野さんの頭には「明日から始まるアワビ漁のために準備を終えている舟をなんとかしなければ」との思いがよぎり、足はその後、必然的に近くの舟揚場へと向かっていた。着くと、揚場の舟が「プカプカ」と盛り上がった海面に浮いていた。津波は直ぐそこまできていたのだ。
 
戦争跡地のようになった当時の稲穂地区
<奥尻町誌「蘇る夢の島!」(写真:朝日新聞社提供)から>
 
 状況に気づき、「危険だ!」と逃げ出したがすでに遅く、“山のような津波”が一気に背後から彼を飲み込んだ。彼の身体は波とともに海底に痛いほど叩きつけられ、しこたま海水を飲んだが、泳ぎができたので、もがきながらもやがて海面に浮かんだ。
 「いずれ波が引きだせば、それで一巻の終わりだ。少しでも山側に近づき、自分の身を固定できれば助かるかも」ととっさに判断した水野さんは、山に向かって必死に泳ぎだした。
 
○浮き沈む女性は妻だった
 20mも泳いだだろうか。暗闇のなか数m先に、ぼんやりと浮かんでは沈む女性の頭が見えた。泳いでいくと、水を掻く右手が再び浮かんできたその女性の右肩に偶然かかった。じっと見つめると、女性は妻だった。家族が車で避難した後、夫と一緒に避難しようと道路際で心配しながら様子を見ていて津波に飲み込まれてしまったのだ。
 「大丈夫か?」と水野さんが声をかけると、「お父さん!」と弱々しい声。「頑張れ!」と励まし、腰のバンドをしっかりと握らせた。引き波は、すでに始まろうとしていた。
 「一刻の猶予もならない。何とかしなければ」と思った時、ススキやヨモギの茎先が身体にあたった。「そうだ!」と心を決めた水野さんは、潜ると両手いっぱいに周辺の茎を掴んだが、それと同時に、海方向への引き波の強い力が夫婦を襲ってきた。
 握った茎の束の根元が、引っ張られる力と重みで徐々に土面からめくれ剥がれていくのが感覚で分かった。それでも水野さんは「ここで死んでたまるか!」と、必死に茎の束を握り続けた。
 間もなく、夫婦から第一波の引き波が去った。眼を上げると、半分以上も根元を剥がされた根塊2つが前に並んであった。水野さん夫婦は手を取り合って、すぐに灯台の立つ高台へと走り出した。高台では、すでに避難していた家族が、涙とともに夫婦の到着を迎えた。
 この時初めて、水野さんは自分が裸足だったことに気がつく。あちこちに切り傷や擦り傷を負い、身体は真っ赤になっていたが不思議と痛みは感じなかった。
 
○親類5人全員が助かる
 津波は、その後も執拗に襲ってきたが、その強さは次第に弱まり、ついには何事もなかったかのような海に戻った。
 しばらくたってようやく夜が明け、高台から見た地区の状況は、わが家も含め戦争の跡地のように痛々しいものとなっていた。
 稲穂地区では、死者・行方不明者含め16人の犠牲者を出した。水野さんのところでは、夫婦のほか舟揚場にいた親類2人と、水野さん家族の車に乗りながら自宅に戻った弟の奥さんなど5人が津波に飲み込まれたが、全員無事だったのは奇跡としか言いようがなかった。
 水野さんは「地震や津波はいつ襲ってくるかわからない。家族の逃げ道を普段から考えておくことが必要。また、懐中電灯やロウソク、食料・水といった緊急時に必要なものをまとめておくことも必要でしょう。私のように、間違っても津波がくるのに海に向かうなどということは、決して行ってはいけません」と事前の備えの必要さを訴え、当時の行動を深く反省した。
素早い対応で危機かわす
 身体の弱った祖父とともに親戚2人と青苗地区の南端に住み、町役場に勤める安藤寛(あんどうゆたか)さん(35歳)は、就寝しようとしたところを激しい横揺れに襲われ、飛び起きた。同居者は、イカ釣り漁船で出漁していた。すでに、一帯は停電となっており、テレビで地震や津波の情報を見聞きすることもできず、暗闇のなかで物を探すゆとりもなかった。
 安藤さんも日本海中部地震の際の津波を経験しており、津波がくれば「わが家は真っ先に被害を受ける」と分かっていたが、その恐ろしい津波よりも「とにかく、祖父を一刻も早く高台へ」との思いが、彼の気持ちをいっぱいにしていた。
 
祖父を肩に、家から運び出した安藤さん
 
 着替えもそこそこに、彼は祖父を肩に担いで玄関から飛び出し、傍に止めてあった自分の車に乗せ、エンジンをかけた。
 「揺れは続いていたし、気味悪い海鳴りが聞こえていた」が、それも彼の頭の中にはなかった。アクセルを思いっきり踏み込み、高台にある親類の家をめざして車を走らせた。まだ道路は混雑していなかった。
 
○車で逃げるしか手段なかった
 安藤さんは言う。「避難時の車の使用は道路を混雑させ、避難を遅らせることになることは知っていました。また、高台への道は片側1車線で、私たちより5分ほど遅れた車の何台かは津波に飲み込まれたと聞いています。けれど、満足な運動もおぼつかない祖父を背負って避難することは困難で、車を使って避難することしか思いつきませんでしたし、揺れの収まるのを待たずに行動したことが、結果として生死を分けることになったと思っています」と当時の状況を振り返る。
 親類の家に到着した時は、揺れは収まっていた。多少の片づけを手伝い、祖父を預けた後に、近くにある町役場の青苗支所にかけつけたが、その間に青苗地区を津波の第1波が襲っていた。
 
○暗闇のなか生存者を救助
 青苗支所は、地区の町並みが望める場所。真夜中過ぎの暗さと停電ではあったが、その後数度と押し寄せる津波のなかで、点灯したまま横倒しとなり使用できなくなった車のライトや発生した火災の炎に崩れ落ちた屋根や流された廃材などがほのかに照らし出され、「地区の状況が一変してしまった」ことは、誰の眼にも推測できたという。
 「生存者がいるぞ!」と下のほうで声がした。集まっていた者たちは、一斉にその方向に走り出した。そして、協力し合って残った海水にずぶぬれになりながら助けを求めていた被災者1人を救助し、「さらに生存者がいるのでは?」と暗闇の周辺に眼を凝らしたが、人の気配はなかった。
 この後、安藤さんは「連絡がとれる電話があるのでは」と空港事務所に移動し朝まで詰め、朝になってから青苗支所に戻ったのだが、そこで想像を超えて廃墟と化した青苗地区の変わりように呆然となった。当然、わが家は跡形もなく消えていた。
 
津波の直後に火災が発生し延焼した当時の青苗地区
<奥尻町誌「蘇る夢の島!」(写真:朝日新聞社提供)から>
 
 この日を境に、安藤さんは高台の親類の家に世話になりながら、青苗支所に設置された復興対策本部で「被災者へのよろず相談、何でも屋」として、被災者が仮設住宅に入居するまで、役場職員としての職務に忙殺されていった。彼が青苗地区での犠牲者が107人にも及ぶのを知ったのは、数日が経過した後であった。
 安藤さんは、心構えとして「地震が発生したら、海に近づかないこと。まずは安全な場所に避難することを第1に考えてほしい。そのためには、地震や津波は恐ろしいものだと認識し、その時には素早く行動することが必要です」と強調した。


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