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羽黒山八朔祭り&芸能ファンタジー
「山楽祭2004 in HAGURO」
1 羽黒町の概要
(1)地域の概要
 米どころ、庄内平野の東南部、霊峰出羽三山の山麓を占める羽黒町の生い立ちは、そのまま庄内の歩みであり、その歴史は遠い昔にさかのぼる。
 庄内平野がまだ内湾として、方々にその面影をとどめていた頃、本町にはすでに原住民が住みつき、集落をつくっていた。玉川遺跡や手向の蝦夷館跡などからの石器や土器などの発掘はそれを物語るもので、すでにこの頃に本町の歴史は始まっていたものとみられる。
 しかし、本町が記録の上に登場するのは、出羽三山の開祖といわれる第32代崇峻天皇の第一皇子、蜂子皇子が羽黒山を開かれた1400年前頃からであるが、当時の事情は歴然とはしていない。その後、大和朝廷が東北の開発に本腰を入れ、出羽柵を設け出羽郡をおいた。和銅元年(708年)以後、その統治のもとに徐々に開発が進められてゆき、その基盤がつくられている。一方、羽黒山においては、羽黒山伏に代表される羽黒修験道が栄え、信仰を求めて訪れる老若男女は全国津々浦々までおよんだ。
 その後、幾多の変遷を経て、元和8年(1622年)酒井忠勝公が庄内に遷封され鶴岡に居城されて、その統治のもとに着々開拓が進められ、方々にまとまった集落ができ、今日の姿に展開してきた。
 明治2年の廃藩置県によって、大泉県さらに酒田県の管轄へとかわり、明治8年には鶴岡県になった。明治9年山形県に合併され、明治11年郡制により東田川郡に所属し、郡治の統治下になった。
 更に明治22年町村制が施行され、手向・泉・広瀬村が誕生。昭和30年2月1日、町村合併促進法のもとに3カ村が合併し、羽黒町が誕生、現在に至っている。
(羽黒町ホームページより)
 
(2)羽黒町へのアクセス
 空路は、東京から、庄内空港、山形空港へ約60分。庄内空港からバスで約80分、山形空港からバスで150分。
 JRでは、山形新幹線を利用して約4時間40分、上越新幹線を利用して約4時間10分。
 自動車では、東北自動車道、関越自動車道ともに約450kmである。
 
2 山楽祭について
(1)概要
 山楽祭は、平成15年から庄内各地に古くから伝承されている能、神楽、番楽、田楽、天狗舞、獅子舞、お囃子などの芸能を故野村万之丞プロデュースのもとに、いにしえの姿で総合芸能として再現しようする試みとしてはじまったもの。
 八朔祭は、入峰した山伏たちが出羽三山の開祖・蜂子皇子をを祀った蜂子神社に祈願し、つづいて大柴燈護摩を行う伝統的な祭り。山伏によって火を放たれた護摩が赤々と夜空を焦がす様子は荘厳そのものである。
 
(2)祭りが行われる場所
 まず、羽黒町の手向宿坊街で各地の伝統芸能によるパレードが行われ、夜になると出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山の総称)の一つである羽黒山頂の鏡池前の特設舞台で、各地の伝統芸能による舞台芸能が行われる。
 その後、羽黒山頂蜂子神社前にて羽黒山八朔祭が行われる。
 
3 視察委員による感想
◎ 羽黒山「八朔祭」蜂子神社例祭・大柴燈祭とは
 羽黒山修験の秋峰入りは8月25日〜31日までの七日間で、31日の夜に出羽三山開祖の蜂子皇子を祀った蜂子神社で護摩を焚き大柴燈祭を行う。
 元来八朔は旧八月朔日のことで初めて田を刈る穂掛祭の節日で、農民の祭りであった。後に武士社会に取り入れられ主従関係の儀礼として武家の節供になり、公家にも伝わり儀式贈答に発展してゆく。民間では餅や人形の贈答に変化したが、農民は青田刈りをして焼き米をつくりささやかなよろこびを分けあった。
◎ 『山楽祭 羽黒山八朔祭&芸能ファンタジー』の概要
 今回で2回目を迎える山楽祭は伝統的な八朔の祭りに、芸能ファンタジーとして庄内地方の伝統芸能と新しい芸能を加えたイベントである。
 午後4時半から参加団体と修験の山伏が羽黒山宿坊街を練り歩いた。
 午後7時半から山楽祭はじまり、イス席は有料(1000円)の席を加え、千二百席が作られ、来場者は立ち見、関係者が約千人、約二千二百人が羽黒山頂に来場し祭りを楽しんだ。参加団体は新町稲荷神社やモンゴルの仮面劇などを加え15団体が芸能を披露した。会場には今回から大型スクリーンが作られ芸能が映された。
 午後10時から蜂子神社で八朔祭の大柴燈祭が零時過ぎまで行われた。
 
◎ 所見・考察
1, 祭りと地域について
 地元の声は、祭りが行われることで外から人が来る、地元の人たちの祭りに対する意識の高揚があり、良い方向といえる。地元ボランティアも約三百人が参加した。
2, 地元の人たちが地元の芸能をいつもと違う雰囲気の中で参加することで、自分たちの持っている文化を再認識することにつながっていると思われる。
3, 演出について
 故野村万之丞の演出によって始められたイベントであるが急逝したため今回の山楽祭は故人の追悼のような形になっていた。演出した功績は認めたいが祭りは共同体地元のためのものと考えたときに、一個人の色が色濃く出てしまったのは残念であった。
4, 山楽祭は午後10時を過ぎても続けられており、10時からの八朔祭とかぶってしまった。そのため八朔祭の一般見学者が少なかったのは残念であった。
 
◎ まとめ
 「伝統の祭り・芸能は形を変えても、その心を伝えるということについて」民俗の芸能は人から人に伝わり伝えて現在に及んでいる。その時代を背景に芸能は変化し、時代に適合し生き抜いてきている事と思う。これらの民俗芸能は神仏への奉納、豊作の祈り、邪気を祓うなど、けっして営利目的ではないことはあきらかで、形は少しづつかわっても心は伝えている。ここで気になるのが新しい芸能と伝統的な芸能が同一線上に並ぶことである。まず何が基本にあり(伝統芸能・民俗芸能)、その基本がどう変化しているかは、演者、観客のどこまでが意識し、見て取ることができるだろうか。続いているものと、新しいものの区別を祭りの参加者にきちんと線引きしておくことが大事である。新しい祭りの見せ方も必要だが、伝承の基本は変化してはならないと思う。
(猪又委員)
 
 芸能にとって、「場」は重要な要素である。もともとは、人が生活する日常の場である「褻(け)」に対して、改まった「晴(はれ)」の象徴が神楽などの芸能である。
 文化は今、博物館型の保存と遺跡型の保存が中心である。博物館型は、ある一面だけを切り取って、その価値を見せる。その特徴が強調される。他のものと並べて比較もできる。遺跡は、そこだけが周辺から切り離されて、時代を超越した時を過ごす。
 芸能を、神社の神楽殿など昔のままの場所で観るか、雨露の凌げる快適な劇場で観るか、観る者も演じる者も、全く違う雰囲気を味わう。
 山楽祭は、集められた民俗芸能が元々演じられていた場所ではない。しかし、単なる劇場公演でもない。羽黒山は国宝(五重塔)や天然記念物(杉木立)をいただく古くからの修行の場である。山道の参道を登ったところに山楽祭の舞台が設えられている。神秘的で吸い込まれそうな山に向かって客席があり、神に捧げる舞に日常を超え時空を超えた動きを見る。神社が重要な祭礼(八朔祭)の日に場を一部貸し、修行の場と祭りの場が融合してしまう。
 民俗芸能を楽しむ全く新しい場であった。
(三好委員)


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