日本財団 図書館


物事を映像で捉える、イメージが浮かぶように説明する
 
(司会)日下さんは以前からアニメに現れるような物語の力が日本の大きな力になっているというお話をされています。今回のアニメ教室の子供たちを見たうえで、ご意見を伺いたいと思います。
 
(日下)学校の成績のいい子供というのは、先生の言うとおり覚えた子供です。着眼点も分析も物語も、先生が言っていることに素直に賛成してしまう子供なのです。だから、頭がいいかどうかは関係ありません。先生と相性のいい子供は点がいいわけで、それを自分でも頭がいいと思い込んだらもう終わりです。そうでない子供は悩んで苦しんでいると思うのですが、そういうことのはけ口にマンガがなるのだろうと思います。勉強ができる人が先生になっていて、その勉強能力の基は文章能力です。今、日本じゅうが文章万能の世の中になってしまっています。昔はそんなことありませんでした。これはヨーロッパから来た悪い習慣だと思います。文章が読めれば賢い、文章が書ければ偉いというわけです。
 私が何でこんなことを言うかというと、例えば博士論文の審査をして、こいつは博士にしてもよろしいなどということをやっていますと、結局文章で大体勝負はついているわけです。しかし、文章は下手だけど、いいことを考えているなという人の話を一生懸命聞いてあげると、なかなかおもしろいことを言うのです。だから、それをそのとおり書いて持ってくればいいというと、本人は困るらしいのです。頭がよくてちゃんと考えているが、文章は下手だという人はこの世に山ほどいるだろうと思っています。
 もう一つの話をすると、私は大学で写真部にいました。写真を撮ってきて、芸術写真といって、お互いに批評をいたしました。大学写真展など展覧会にたくさん出品していたのですが、そのときの仲間は世の中に出てみんな出世しています。これが不思議なのです。法学部・医学部・文学部・経済学部と、学部は全部違うのですが、不思議にみんな出世している。それは物事を映像でとらえる、イメージでとらえるという力が自然にあって、それで仕事をすると、どうも世の中うまくいくらしいということではないかと思います。あいつが局長になった、次官になった、病院の医院長になった。そんな頭のいいやつではなかったのに。(笑)
 
 
 それはやはり多分説明が柔らかいのでしょう。聞いている人にイメージが浮かぶように説明するのでしょう。難しい法律を作っても、上役に説明するときに、この法律はここがねらいどころでこういうふうに、と説明するのがうまいのだろうと思います。多分、法律を作るときから全体像が目に浮かぶ。部分的に細かくならないでいつも全体を見て、この法律を出すと世の中の人は右へ動いたり左へ動いたりして、結局こうなるだろうという物語を考えて上役に説明する。こういうことだと思うのです。
 お医者さんであれば、患者さんにあなたの病気はここが心配でここは心配ないという説明をします。説明がうまいということは実はその前に考えているということなのです。医者の世界には、内科学とか外科学とか分厚い本があります。あれを読んでみると、物語力のない医者が多い。こんなのが医学か、こんなのが医学博士かと思うことがたくさんあります。このごろどんどん医学が進歩していますが、その進歩のもとになっているのは物語的なアイデアです。本当の常識なのです。医学博士を目指すと細かい研究ばかりして、全体を考えられないような秀才が多くなり困るのです。私がある病気になりまして病院へ行くと、医者に「昔は絶対に卵を食べてはいけないといわれていたのですが、今は大いに食べていいのです。学説がそう変わったのです」と言われました。私は何ていうインチキな医者だと思って、丸善へ行って医学の本をいっぱい買ってきました。すると、その医者が読んでいる本がちゃんとあったのです。それを書いたのはシカゴで研究したアメリカ人の医者で、サンプル数は百何十人で卵を食わしたほうが結果はよかったと書いてありました。その下に人種構成があって、この百何十人のうち白人は何人、黒人は何人、アジアの黄色人種は何人と書いてありました。しかし、黄色人種は少ししかいないのです。だからびっくりして、私には関係ないではないかと思いました。そうでしょう? 黄色人種のサンプル数が非常に少ない。卵を食べるといいというけれど、日本人には悪いかもしれません。そういう疑問を持たず、これが最新医学の学説であるといってその人は患者を治療しているわけです。結局、卵は食べて、病気も治ったのですが、本当の因果関係は分かりません(笑)。
 シカゴ大学医学何とか学会レポートを読んで、すぐ信用する医者もいれば、「待て、待て。日本人はイワシを食っているから卵は要らないのではないか?」と考える医者もいるでしょう。そういう考える力、常識が必要なのです。
 写真部では、写真を撮って、お互いにメタメタにやっつけていました。「おまえ、何でこの写真を撮ったのだ。この写真の見所は何なのだ」「かわいいから撮りました」「これのどこがかわいいのだ」「この人がかわいい」「では、この人を真ん中にして、こちらの要らないのは削れ」というふうにみんなでやっつけるのです。そうすると、その人は次から、女性のかわいさを撮るには、どこへ行ってどう撮ればいいか考えるようになっていきます。結局それは学校では教えない頭のよさになったのかなと思います。
 そんなわけで、勉強のじゃまだからマンガを読むなというのは間違いかなと思って、こんなことをやっているわけでございます。
 
(森川)物を作るということは、「ソウゾウリョク」を訓練してつけることです。「ソウゾウリョク」というのは、頭で考えて想像する、いろいろなことを外から見たりして想像する「想像」と、もう一つは、創るの「創造」です。何もないところから何かを創り出す創造力です。
 
 
 日下会長がおっしゃった写真部のメンバーたち、医院長になったお医者さんが患者さんに対する態度が違うというのは「ソウゾウリョク」をお持ちのお友達だったのではないかと思うのです。ひょっとすると、その写真部で写真を撮って皆さんでワイワイやることで、「ソウゾウリョク」の訓練をなさっていたのではないかと思うのです。
 皆さん想像力と創造力の両方を持って六法全書や外科医学書を読む、勉強が好きで好きでたまらないという「ソウゾウリョク」の塊の学生さんたちだったのではないでしょうか。
 
(日下)六法全書は理屈が書いてあるから、分かる人はすぐ分かってしまいます。あれでうんうん言う人はもともと向いていないのです。向いている人にとっては、あれは全部数学と一緒です。理屈どおりのものだからすぐ分かってしまって、あり余った元気が写真、マンガ、文学、あるいは昔は学生運動というのもあったのですけど、そういうものに向かっていったのだと思います。
 
(峰岸)今、日下会長がおっしゃっていたことに非常に同感です。私は今アニメーション学科で生徒にビデオと写真を教えています。
 なぜビデオと写真をアニメーションの生徒に教えるかというと、ものを見るときに、どこから見るか、どの位置からどのように見るかということを自分で客観的に認識させるためです。客観的に自分のいる場所を認識するための道具としては、ビデオやカメラは非常に有効です。
 できた写真を見て、自分か撮っていたところを改めて第三者的に見るのです。そうすると、非常にあいまいなところに自分がいて、あいまいなものしか見ていないというのがよく分かります。先ほど会長がおっしゃっていたように、見ているものを凝縮して見なくてはいけない、自分の見方が甘かったのだということが、自分の撮った写真を改めて見るとすごく分かります。
 私も写真部にいたのですが、先輩に写真をいっぱい撮れと言われました。夏休みの間、100本ぐらい撮れと言われたのだけど、100本撮るというのは難しいです。何を撮っていいか分からなくなってしまいます。
 しかしとにかく撮っていくとだんだん無駄なものを撮らなくなってきます。無駄な構図をしなくなって、自然とカメラをのぞく前にいい場所に足が行くのです。ここに立ったらいい写真が撮れるというところにまず足が行って、カメラをのぞいたときにはもう構図ができている。
 そうすると、結局人間というのはどの立場にいれば自分の考え方を表現できるかということが分かるのです。ビデオも編集するという技術がすごく大切で、編集のしかたでそのビデオの映像の意味が全然違ってしまいます。例えば成田の三里塚抗争も、どちら側に立ってカメラを映すかで映像の意味が変わるということを学生によく話します。自分を主張するための道具がアニメであり写真でありマンガなのです。その辺はみんなつながっていると思うのです。
 
何のために表現しているか自問し続けなければいけない
 
(峰岸)ちょっと話は違うかもしれないのですが、私が一緒に仕事をしたある会社の社長さんは、本当に真実を見るということを大切にしていました。
 あるとき会社でカタログに使うための写真を撮ることになりました。私はきれいな写真を撮りました。「きれいな」というのは、分かりやすいとか構図がいいとかピントが合っているという意味です。
 ところが、その社長さんはその写真はだめだといったのです。代わりに何を使ったかというと、社員が仕事をしながら撮ったスナップ写真を使ったのです。それはぶれていて、構図も悪くて、とても普通だったらカタログに使わない写真です。その写真を社長は選んだのです。
 どうしてこの写真のほうが私の撮った写真よりいいのだと質問したら、社長は一言、「こっちの写真のほうが真実が映っている」と言いました。要するに、美しく見えるものだからいいとか、よく映っていて構図がいいからいいというものではないということです。写真というものは人に真実を伝えなくてはいけない。そのためには、たとえ見づらくても構図が悪くても、真実が映っている写真を私は使いたいとその社長は言ったのです。
 非常にわがままなワンマン社長なのですけども、その社長と一緒に仕事をしていて、物を見ることのよしあしを判断する貴重な勉強をしました。人間というのは、ついきれいなものだけを見てしまうけれども、きれいなものには汚いものがつながっていると思うのです。見たくないものもきちんと見る。失敗もきちんと確認する。その中で自分の選択をするというところがその社長の生き方なのだという感じがして、私はその辺をいつも肝に銘じて、写真を撮るにしても、ほかの仕事をするときにも、きれいだからといって本当にそれでいいのかと自問するようになりました。逆に、私はきれいなカタログとか、他人のデザインを、すごく嫌いになりました。私はデザインを美大で勉強していたのですけども、実はすごく嫌いなのです。きれいなデザインにごまかされるのです。多くの商品はそういう方向に向かっています。でも、世の中はそういう面ばかりではないわけです。
 要するに本当の物語というのは、気持ちいい安易な物語だけとはちょっと違うだろうと思うということです。
 
(新井)私もちょっと話がずれるかもしれないのですが(笑)、ある程度、自分が作りたいものを表現できる技術をもってくると、初めの動機にまた戻ってくるのではないかと思うのです。何のために自分がこういったストーリーを考えたのだろうとか、こういう絵を描くのだろうというところに戻ってくると思うのです。
 今日のアニメ教室を見ていて思ったのですが、初めから「あなたの思いを絵にぶつけて好きなようにかいてごらん」と言っても、最初は平たくいうと「人まね」から始まってしまうと思うのです。それで、まねから入ると、きれいなものを作るというような技術の洗練だけに陥りがちになります。自分にも言い聞かせていることですが、そういった小手先の技術におぼれないようにして、結局それを使って何を表現したいのか、自分は何のために作っているのかというようなことを、自問し続けなければいけません。そこまでたどり着くためにも、自分の物語を作れる力、思いを描ける技術というようなものが必要なのかなと思うのです。
 
(峰岸)森川さんもやはり最初は人まねから入ったのですか。
 
(森川)人まねです。マンガだけではなく何でもそうだと思います。
 
(峰岸)それでずっと描いていると、その中でだんだん自分の個性みたいなのを認識してくるものですか。
 
(森川)そうですね。あれは不思議ですね。
 
 
(日下)自分の個性とか信念にたどり着く前に、まず与えられた任務に対してまっすぐに本気で考えろということです。例えば、こういうシンポジウムでも、電通、博報堂など専門家に任せましたということが多いのです。仕事をする人がみんなサラリーマンになって、責任を取りたくないものだから、専門家に任せましたとなっています。電通、博報堂なら業界一番ですから悪いはずがないでしょうというのです。
 世の中にはそういうことがたくさんあります。では大手広告代理店でやっている人はというと、大体は去年学校を出たような、自分と大して変わらない人がやっているのです。この人たちもまたサラリーマンになってしまって、型どおりのものを型どおりに写してやっているわけです。ですから、型どおりのものを高い値段で買っている会社が悪いので、そんな会社は今に左前になるぞと昔から言っていました。いままで現実になりませんでしたが、このごろ型どおりの会社はどんどん左前になるから、不景気というのはいいものだな、真実の力が出てきたなと思っています。
 大手広告代理店に入った人は、何で型どおりに働くのだと言いたいのです。だけど、そういう人ばかり採用するのだから、これは上役が悪いのです。いったん悪い上役ができてしまうと、ずっと下まで同じような人を採用しますから、人間のタイプがそろってしまいます。学生のほうでも、ああいうふうになれば電通に入れると思います。そういう学生はだめなのです。入ってみたらそんな会社は間もなくつぶれるのです。今は激変期なので、大変いいことだと思っています。
 ちょっと思いついたことを言いますと、今日ここへ入ってくると、子育て支援財団がやっておりますというコーナーが左側にありました。子供さんをここで遊ばせるのですという5メートル四角ぐらいの空間があって、そこにおもちゃがいっぱいあって、親もいっぱいいます。そして子供もいるのだけど、中で遊んでいる子供がいません。何でこんなもの作っているのだと思いました。それは財団ですから、県庁からたくさんお金ももらってやっているに違いないのです。子供を遊ばせるにはこんなものを作ればいいのだと型どおりやっています。
 子供を遊ばせるコーナーで思い出すのはある航空会社です。空港の中でお子様が走り回ると事故のもとだからやったのでしょう。一生懸命やっていたと思います。
 どこが違うかと思いだすと、その航空会社の場合はちゃんと女性が1人中にいました。それで子供も中に入って遊んでいた。子育て支援財団の人は中に入っていない。おもちゃを並べているだけ。だから子供は中に入ってこない。こんなものは本気で仕事をしていないと思います。どうすればよいかいうと、例えば、子育て支援財団の職員には子供が2〜3人ある人だけ雇うようにして、県庁の天下りはやめるようにする。
 こんな具合で日本じゅう本気でやる人がいない。だから、ちょっと本気を出せばすぐもうかる。今、世の中は大変暮らしやすいと思います。今まで人がやっていないことをやればいい。だから、文章力など練っているより世の中の常識を身につけなさい。そうすると物語力が身につきますよ、と思うのです。
 
(司会)本日は、大変有意義なお話を大変ありがとうございました。今一度、パネリストの皆様にお礼申し上げます。
 







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