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2004年5月号 経営労働
意外な展開を見せる中国大連の民営企業
一橋大学大学院商学研究科教授 関満博
 
 日本企業の中国進出は、21世紀に入って、さらに、その勢いを強めているように見える。特に、上海周辺の長江下流域への進出がいっそう際立ってきた。例えば、2月26日には、江蘇省無錫市主催の「2004無錫・東京経済発展フォーラム」が東京のホテル・ニューオータニで開催されたが、当初の予定の参加者150人をはるかに上回り、380人に上った。会場で眺めていて、ずいぶんと時代が変わったことを痛感した。そして、その会場では新たな10件の日中合併の投資の調印式が行われていた。
輸出組立拠点以降の大連
 このように、現在は、無錫、蘇州などの長江下流域が、日本企業進出の焦点になっている。このような状況に対し、かつての日本企業進出で湧いた北方の大連はどのようになっているのか。やや心配になり、2004年2月末、2年ぶりに大連を訪れた。
 日本企業の初期の中国進出は「輸出組立拠点」の形式というものであり、その時代には、港湾能力に優れ、日本に近い「大連」の優位性は際立っていた。日本から材料部品を送り、組み立てて、日本に返すという「持ち帰り型」企業が大量に大連に進出した。
 だが、昨今の日本企業の中国への関心は、次第に「中国国内市場」というものになり、大連の優位性は薄れ、むしろ、中国の中心に位置する上海及びその周辺の長江下流域が注目されることになった。こうした枠組みの変化の中で、大連はどうするのか、興味津々に大連を訪れた。私事で恐縮だが、私の母は大連育ちであり、戦前戦後に26年も住んでいた。私にとっても「故郷」の気分である。
 とりあえず、旧い友人たちに頼み、日系企業2社、ローカルの民営企業5社の訪問を実施した。また、特に、基盤技術である機械金属系の中小企業を焦点にした。金型、鈑金などの「基盤技術」であり、日本では次第に怪しくなり、逆に、中国で必要性が強く求められている部門である。このあたりの精密加工技術が、その国の技術レベル全体を大きく規定することになる。
中小ハイテク企業の意外な展開
 鈑金屋といわれて訪れた「光洋科技」の1階の工場には、日本のアマダの鈑金加工機が一通り並んでいた。なかなかのものであった。さらに、鈑金の世界ではナンバー1とされるドイツのトルンプのベンダーと、また、三次元の精密溶接機が入っていた。私はこの溶接機は日本では見たことがない。私と同行した日本の鈑金屋も唸っていた。
 さらに、この光洋科技、鈑金だけでなく興味深い溶接機などの自社製品も持っていた。従業員約100人規模で、博士が3人いるという。社長は1951年生まれの53歳。国有企業で自動化の技術者として働いていたが、lO年前に独立。大連に進出している日系企業と付き合い、ここまで来た。
 特に、産学連携に意欲的であり、オーバードクターに学位取得の機会を提供する「博士後科学研究センター」(100人規模)を保有し、さらに、1万5千m2 の「技術交易センター」も保有していた。同行した日本の中小企業の経営者たちは狐につままれた顔をしていた。日本の洒落た中堅のハイテク企業でも、なかなかここまではいかない。
60歳を過ぎて独立した金型工
 次に訪ねた(らん)芸精密模塑製造も興味深いものであった。経営者の呉建川氏(1938年生まれ、65歳)は、元々、大連の国有企業で金型技術者として働いていた。85年に日本に視察に行く機会を得、東芝の工場で4000万円もする金型製作用の機械を見て衝撃を受ける。「これからの金型は、こうした機械で作るのか。中国は数十年遅れている」と感じたという。
 98年、60歳定年で退職し、「この仕事で何かやりたい」との思いを重ね、99年8月に独立創業する。それから4年、プレス金型、プラスチック金型、射出成形工場を展開、従業員130人規模になっている。工作機械も徐々に揃え、ソデッィクの放電加工機、マキノのNCフライス、ヤマザキのNC旋盤、岡本の平面研削盤など、基本的な設備はほぼ整っていた。取引先は日系が多く、キヤノン、三洋電機、アルパイン、日本電産等の大連進出企業に加え、北京の松下などにまで入っている。
 同行した日本の金型企業は、「60歳過ぎて始めて、4年でこれだけ揃えたのか」と唸っていた。別れ際に、彼は「中国も工業発展するためには、金型からやらなければダメだ。今は、日本とそれほど差はない」と遠い目で語りかけてきた。中国にも、これほど激しく生きようとする年配の技術者がいることに深い感銘を受けた。
遅れてきた国有企業民営化
 神通模具(金型)の玄関でクルマから降りると、即、金型職場に連れて行かれた。三菱電機のワイヤーカット放電加工機が3台、マキノのNCフライスが1台、ハウザーの治具研が1台並んでいた。なにか、遠い昔に見たような気がした。確認すると、昨年までは国有企業であったのだが、今年になって民営化したのだと言う。以前の名前を確認すると大連低圧開関(スイッチ)廠、私が89年に訪れた工場であった。
 先の機械は87年に、大連全体の期待を背負って「金型モデル工場」として設置されたものであった。だが、その後は思うような発展をたどることが出来ず、今年、民営化された。金型と機械加工部門を引き継いだ金型専門家の徐文科氏(1960年生まれ)は、「現在の従業員は43人、民営化に伴い、従業員の50%を削減した。残った従業員は株を所有したし、希望を持っている」「これから設備を入れ換える。工場も外資企業が集積する大連経済技術開発区に移転する」と語っていた。
 国有企業改革に悩むとされる中国東北の地でも、大連ではやや遅れてきたものの、希望を抱いた人々が、新たな可能性に向けて大きく踏み出しているのであった。
「基盤技術系中小企業」の登場
 中国の80年代は「郷鎮企業の時代」、90年代は「外資企業の時代」そして、21世紀は、確実に「民営企業の時代」になる。その場合、昨今は北京などのソフト系の「ハイテク企業」、あるいは浙江省の農村から立ち上がったとされる「私営企業」が注目されることが多い。もちろん、そうした存在が現在の中国の「民営化」「中小企業」を象徴しているが、もう一つの注目すべきものとして、見落としていたが、重厚長大型の国有企業に悩まされてきた中国東北の大連における金型などの「基盤技術系中小企業」の登場が指摘される。
 同行した日本の基盤技術系の中小企業の経営者たちは、異口同音に「トルンプの三次元の精密溶接機など、見たこともない。中小企業に博士が3人か」「60歳で創業して、短期間にあれだけ来たとは凄い」「あの民営化したばかりの金型屋、あれは一気に来るぞ」と緊張した面持ちで語り合っていたのであった。
 当面、台湾系のコンピュータ関連企業の中国進出を追いかけている私の次の課題は、中国における基盤技術系の機械金属加工の中小企業の生成と発展の追求、ということになりそうであった。
関満博(せき みつひろ)
1948年生まれ。
成城大学大学院修了。
専修大学助教授を経て現在、一橋大学大学院商学研究科教授。
 
 
 
 
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