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私はこう考える【中国について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2001年1月号 国際問題
冷戦終結後の日中関係─「七二年体制」の転換
国分 良成
(慶應義塾大学教授)
はじめに――広がる日中関係の隙間
 一九七二年(昭和四七年)の日中国交正常化からすでにすでに二八年、まもなく三〇年を迎えようとしている。このとき日本国内には中国フィーバーが吹き荒れ、「日中友好」のスローガンが巷に溢れた。思い起こせば、中国は当時文化大革命の最中であり、現在と比較にならないくらい国内政治は権力闘争に明け暮れ、そして閉鎖的であった。にもかかわらず日本と中国は蜜月時代に突入した。その契機となったのは、もちろん以前から国内に存在した国交回復運動をはじめとしたさまざまな要素もあるが、より直接的にはニクソン訪中による米中接近であった。
 「日中友好」はパンダやシルクロードなど、マスメディアの商業主義的な報道や宣伝を通して確立されたように「感じた」。一九八〇年代前半までは数多くの友好訪中団が結成され、模範的な人民公社や国営企業あるいは小・中学校などを訪れることで中国に「触れ」、「友好」のムードがいちだんと盛り上げられた。「中国人民の眼は輝き、近代化に一丸となって遭進している」、こうした言説がいたるところで踊った。一般旅行者が比較的自由に個人で中国を旅行できるようになったのは八〇年代後半からのことであり、しかも中国からの留学生が数多く日本に来るようになったのもこの頃からである。つまり、この段階からようやくお互いに直接の姿に接することができるようになった。
 総理府の世論調査をみても、一九八〇年には中国に「親しみを感じる」割合が七八・六%で、「感じない」がわずか一四・七%、この年アメリカに対してはそれぞれが七七・二%、一七・七%であり、中国に対する好感度がアメリカを数字のうえで上回った。その後も八〇年代を通じて、日本人の中国への親近感は六〇%台後半、もしくは七〇%台前半を保ちつづけ、アメリカに対する数字とほぼ拮抗していた(1)
 こうした中国イメージが一挙に崩れはじめたのが、一九八九年の天安門事件であった。同じアンケート調査によれば、八八年の親近感は六八・五%あったが、事件後はそれが五一・六%に落ち、「親しみを感じない」が二六・四%から四三・一%に急増した。これ以後中国に対するイメージは好転することなく、台湾海峡危機などの要因により、九〇年代後半以後は年によっては「親しみを感じない」が五〇%を超え、「親しみを感じる」を上回るようにさえなった(2)
 中国でも同様のことが指摘される。しばしば引用されるが、『中国青年報』の対日イメージ調査(一九九七年)が中国における若者の対日不信感の根強さを物語っている。このなかで対日印象が「良い」が一四・五%、「普通」が四三・九%、「悪い」が四一・五%であった。そして日本と聞いて思いつく有名人の第一位は東条英機(二八・七%)であり、日本と聞いて思いつくことで最も多いのは「南京大虐殺」(複数回答で八三・九%)であり、第二位は「日本侵略者」を意味する「日本鬼子」と「抗日戦争」(八一・三%)であった(3)
 イメージ論を離れて現実の日中関係に目を転じても、一九九〇年代以後、両国の関係は必ずしもしっくりしない。日本にとって九二年の天皇訪中はいわゆる歴史問題に終止符を打ち、新たな関係を樹立するための契機となるはずであった。ところが戦後五〇年の九五年頃から、中国国内では市場化と分権化にともなう地方の自己主張の高まりと中央権力の弱体化に対応するかのように、中国共産党が愛国主義キャンペーンを繰り返し、これに合わせて過去の日本の中国侵略を強調する度合いも高まった。加えて九五年には台湾の李登輝総統による訪米、九六年には総統直接選挙で李登輝再選があり、その過程で中国は台湾近海にミサイルを打ち込むなどの軍事演習を実施し、いわゆる「中国脅威論」の素材を自ら提供した。
 一九九八年一一月の江沢民による国家主席としての初訪日も、結果としては不調に終わった。本来はこの訪日により、「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」を新たなスローガンに、ホットラインの設置、青年交流の促進、中国人の日本への観光旅行制限の緩和、環境保護協力の推進などを規定した共同宣言を発表することで、日中の新たな関係の方向性を打ち出す予定であった。もちろんこれらはすべて現実のものとなった。ところが結果として、誰もこのような「成果」に注目することはなくなった。それは共同宣言に日本側が過去についての「お詫び」の一言を盛り込まなかったことで、江沢民が激怒し、宮中晩餐会も含めて滞在中に歴史問題を執拗に取り上げたことで、日本から強烈な反発を浴びることとなったからである(4)
 一九九九年七月には当時の小渕恵三首相が訪中したが、歴史問題が取り上げられることもなく平穏なうちに終了した。二〇〇〇年一〇月には朱鎔基首相が訪日し、江沢民訪日以来冷えきった関係を改善すべく、市民とのテレビ討論に応じて得意のパフォーマンスで巧みに返答するなど、中国イメージの好転へ向けさまざまな試みを展開した。朱鎔基訪日そのものは成功であった。江沢民訪日と比べれば、もちろん雲泥の違いである。
 ところが日中関係はどこかしっくりしない。このところ目立つのは、日本側が中国に比較的厳しく、中国側が歴史問題への言及を控え、日本からの要人の訪中にはランクを上げて会見するなど、日本にソフトな姿勢を示している点である。中国側のこうした姿勢は、国有企業改革や貧困農村問題などで依然として苦しい国内経済を再び活性化すべく、海外とりわけ日本の経済力の中国市場への再参入に期待をかけている現われと思われる。対中直接投資が激減し、対中政府開発援助(ODA)に批判が集中する日本の現実に歯止めをかけたい、それが中国の狙いであろう(5)。それでも日本の中国への関心が急降下をつづけた場合、中国側はどこまで我慢できるであろうか。事実、中国のインターネット上などでは、すでに日本に対する柔軟策に批判が登場している。
 なぜこのような悪循環に陥ったのであろうか。本稿は冷戦終結後の日中関係の構造変化をそれ以前との比較のなかで分析することで、こうした関係悪化の背景を探ってみたい。この場合の構造変化とは、一九七二年の国交正常化以後に形成された関係の安定構造が、八〇年代末から九〇年代にかけてのいわゆる冷戦終結後に変容の過程に入りつつあることを意味している。ここではそれを日中関係の「七二年体制」の転換としてとらえ、(1)国際秩序の構造変動と中国、(2)相互依存の深化、(3)世代交代、(4)台湾の変容、という四つの角度から検討してみたい。ここで明らかなように、本稿は便宜上「冷戦終結後」としているが、それは必ずしも国際要因からすべてを説明しようとするわけではなく、他の国内要因との結び付きのなかでその構造を複合的に説明することに力点がある。
 

(1)総理府・内閣総理大臣官房広報室『外交に関する世論調査』、世論調査報告概要・平成一一年一〇月調査、五〇―五一、六五―六六ぺージ。
(2)同右、六五―六六ぺージ。
(3)『中国青年報』一九九七年二月一五日。
(4)江沢民訪日のいきさつについては、国分良成「試練の時代の日中関係――江沢民訪日記実」『法学研究』(慶應義塾大学法学研究会編)第七三巻第一号(平成一二年一月)、参照。
(5)このあたりの背景分析に関しては、国分良成編『中国全球化が世界を揺るがす』、ウェッジ、二〇〇〇年、第一章、参照。
一 国際秩序の構造変動と中国
 日中関係における「七二年体制」はまず国際関係によって規定されていた。日本にとって対中国交正常化は、現実にはアメリカの同意なしには不可能であった。それはまた、中国が日米安保条約を容認しなければ不可能であった。それらの条件を実質的に可能にしたのが一九七一―七二年の米中接近であった。アメリカと中国の突然の和解は、ソ連という共通の「仮想敵」に対抗したものであり、それまで米中対立に基づいていたアジアにおける冷戦構造はここに大きな転換をみせることとなった。
 これ以後、アメリカは日本の対中関係正常化を承認し、中国も日米安保条約の存在を容認した。中国が日米安保を容認するようになったのは、それが反ソ戦略の一環として有効であると判断したためであった。日中国交正常化直後の一九七三年二月、毛沢東はキッシンジャー米大統領補佐官に対して、「われわれとしては、日本がソ連との関係を緊密化させるより、貴国との関係をよりよいものにしてくれることのほうを願っています。そのほうがよい」と語っている(1)。またしばしば指摘される点として、中国が日米安保を容認するに至ったのは、それが日本の軍事大国化への歯止めとして効く(ビンの蓋論)との理解に達したとの解釈もある。
 このようにして、米中両国と日本はソ連という共通の対抗目標のもとに、実質的に戦略的な提携関係を形成することとなった。それがその後のソ連解体による冷戦終結まで、日米中の三国関係が安定した最大の理由である。ただ、日本が一九七二年以来、アメリカと中国による対ソ包囲網のなかに実質的に組み込まれたことについて、この段階でどこまで戦略的に自覚していたかは今後の検討によらねばならない。なぜなら、その後七〇年代後半における日中平和友好条約の締結交渉の過程で、中国にとって反ソを意味する「反覇権」条項の挿入をめぐって紛糾したが、これはすでに七二年の日中共同声明のなかに中国側の希望で挿入されていたからである。
 「七二年体制」のもとでは、日米の間で中国の近代化が共通の利益としても想定されていた。というのも中国は長く毛沢東の指導のもとで、文化大革命に象徴される政治闘争を継続させ、現実の経済発展については優先させてこなかった。その結果、中国は国際的市場競争の外に置かれてきた。しかし一九七〇年代前半から、中国は周恩来の政治指導下で徐々に国際社会への復帰を成し遂げ、七八年以後の小平時代においては改革・開放政策により、積極的に国際社会への接触と学習を求めるようになった。このような中国の姿勢を日米両国とも高く評価し、国際社会への参入を積極的に後押しした。
 ところが冷戦終結により、それまで日米中の関係を結びつけていたソ連という共通の対抗目標が消滅した。その結果、三国はお互いを引き付ける接着剤を失った。天安門事件と冷戦終結の後、米中両国は台湾、人権、最恵国待遇(MFN)と世界貿易機関(WTO)加盟、武器輸出などの問題でしばしば衝突し、アメリカの一部には「中国脅威論」すら台頭するようになった。中国側もアメリカの度重なる外交圧力に、対米不満を増大させることとなり、それは一九九九年五月のユーゴスラビアの中国大使館に対する北大西洋条約機構(NATO)軍の「誤爆」のときに頂点に達した。八〇年代にアメリカは、ソ連への対抗上から中国に武器供与や軍事協力まで実施し、当時の中国の核実験や国防費などに関してはほとんど問題にしてこなかった。それは日本にしても基本的に同様であった。
 一九九〇年代、日米間では安保を含めた日本の国際貢献の拡大を模索するなかで、いわゆる日米安保条約の再定義が進行した。これは現実には、日米安保条約がもともとソ連を対象としていただけに、その消滅により、同盟関係継続のための新たな意味づけを求める必要性から行なわれたものであった。それが九六年四月の橋本・クリントン会談による日米安全保障共同宣言であり、九九年五月に国会を通過した新ガイドライン関連法であった。また朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のミサイル開発に対抗して、日本はアメリカとの間で戦域ミサイル防衛(TMD)の共同開発に関心を示しはじめた(2)
 中国はこうした動きに強く反発した。それは安保再定義が、ソ連なきあとの反中国包囲網の一環であるとみえたからであった。しかもそのタイミングが悪かった。もともと安保再定義問題は冷戦後時間をかけて行なわれてきたものであったが、首脳会談によりそれが大きく取り上げられたのが一九九六年三月の台湾での総統選挙と、これを牽制する中国の軍事演習の直後であったからである。中国にとっては、こうした動きが、台湾問題に対する日米の共同行動の布石とみえたのであった。TMDにしても、中国は北朝鮮を口実に将来は中国向けとするのではとの嫌疑を捨てていない。
 中国の近代化について言えば、日米両国は基本的に改革・開放政策の推進と国際経済システムへの参入を促す立場に変化はない。特に最近では、中国のWTOへの加盟をめぐって複雑な議論が展開されたが、一九九九年七月に日本が、そして九九年一一月にアメリカがそれぞれ中国加盟を承認している。この間、中国は国内にかなりの反対論が存在したにもかかわらず、深刻な経済不況を反映してか、大幅な譲歩を行なってWTOへの加盟を急いだ。ただ中国が社会主義市場経済のもとで経済的規模を拡大させるにしたがい、将来性をめぐる疑念が日米両国の間に潜在していることも事実である。その最大のものは毎年一〇%を超える増加をみせる軍事増強の傾向と、九五、九六年の台湾海峡での挑発的な軍事演習とそこにもみられた軍部の台頭現象である。中国は海外からの再三にわたる「国防透明化」の要求に応じて、国防白書などを発表するようになっているが、依然として自己正当化の面が目立ち、実質的な透明性にはまだ問題がある。また最近の国防白書でも「積極防御」を理由に、「中国的特色をもつ強兵の道を歩む」と国防充実化方針を明確に打ち出していることも事実である(3)
 日米両国の政策担当者は、台頭に歩調をあわせた中国の軍事面での上昇傾向に戸惑いと懸念を感じている。アメリカ国防総省は昨年六月、中国の軍事力についての報告書を発表しているが、そのなかで中国が経済成長とともに大国としての地位を追求し、二〇〇五年以後には軍事力で台湾に優位に立ちはじめ、やがて核抑止政策を強化してアメリカと競合するであろうと結論づけた(4)
 日本でも平成一二年度の防衛白書は、「中距離弾道ミサイルについては、日本を含むアジア地域を射程に収めるミサイルを合計七〇基保有しており、従来の東風3(CSS-2)から、命中精度などの性能が向上した新型の東風21(CSS-5)への転換が進みつつある。さらに、短距離弾道ミサイルも保有しており、台湾対岸における新たなミサイル基地の建設の動きも伝えられている」と述べるなど、これまでよりもやや踏み込んだかたちで中国のミサイル開発問題に触れた(5)
 以上のように、冷戦終結により日米中関係を支えていたソ連ファクターが消滅した反面、中国に対する認識に若干の戸惑いが出はじめた結果、それまでの「七二年体制」を支えていた日米中における一定の秩序関係に揺らぎがみえつつある。
 

(1)William Burr, ed., The Kissinger Transcripts: The Top-Secret Talks with Beijing and Moscow, The New Press, 1999 (鈴木主税・浅岡政子訳『キッシンジャー最高機密会話録』、毎日新聞社、一九九九年、一二四―一二五ぺージ)。
(2)国分良成「東アジア安全保障と日米中」『国際問題』第四七八号(二〇〇〇年一月)、二八―三〇ぺージ、参照。
(3)中華人民共和国国務院新聞弁公室「二〇〇〇年中国的国防」(二〇〇〇年一〇月一六日)『人民日報』二〇〇〇年一〇月一七日。
(4)二〇〇〇年六月二四日、夕刊各紙。
(5)防衛庁編『防衛白書』平成一二年版、平成一二年七月、五三ぺージ。
二 相互依存の深化
 一九七二年に国交正常化が実現してからのち、政府間では各種の実務協定が結ばれた。日中貿易協定(七四年一月)、日中航空協定(七四年四月)、日中海運協定(七四年一一月)、日中漁業協定(七五年八月)がそれである。これらの実務協定の成立をうけて、日中間では本格的に平和友好条約の締結交渉に入った。この過程でソ連を敵視する可能性のある「反覇権」条項の条約への挿入可否をめぐって、日中間で紛糾したのは周知のとおりである。複雑な交渉過程を経て、条約は七八年になってようやく締結された。この段階までの日中関係はほぼ全面的に政府主導であった。
 民間の役割が大きくなるのは、平和友好条約に若干先立って調印された日中長期貿易取り決め(一九七八年二月)により、日中間の貿易方針の概略が決められてからである。この取り決めは短期的には同じ時期にはじまり、石油大増産などを目指したあまりに野心的でその後挫折する「経済一〇ヵ年計画」と連動していたが、長期的に言えば、七八年一二月の中国共産党第一一期第三回中央委員会全体会議(三中全会)に象徴される、中国の経済近代化路線への全面転換とも関連していた。
 取り決めでは、その後の日中経済関係の基本構造が確定された(1)。中国が日本に石油や石炭などの原材料を輸出し、日本が中国に先進的なプラントや技術を輸出するというものである。結局、この枠組みは中国の石油生産が停滞することで崩れてしまうが、ここでは日中貿易を資源と先進技術のバーターとして想定しており、それはいわば先進国と発展途上国との間の典型的な経済関係パターンとして成り立っていた点である。それはつまり、水平的というより垂直的な関係であった。
 日中経済関係の構造が大きく変わるのは、一九八五年のプラザ合意以後の円高のなかで、日本企業が安い労働力を求めて中国本土への展開を考えはじめてからである。ただ日本企業の中国進出は八〇年代後半の段階ではまだ慎重であり、それが加速するのは九〇年代とりわけ小平の南巡講話による改革・開放の大号令と、社会主義市場経済路線が提起されてからである。
 日本企業の直接投資は、中国側統計(契約べース)によると、一九七九年から八三年までの五年で二七件、九・五億ドルであったものが、九五年だけで二九四六件、七五・九二億ドルに達した。貿易についても、八七年までは中国の輸入超過であったが、八八年から立場が逆転し、現在に至るまで日本の入超増がつづいている(2)。それはおそらく、中国自身が海外からの直接投資などで競争力をつけ、輸出産業を振興させたことの結果であったと思われる。要するに、日中経済関係の構造は当初の垂直的関係から、九〇年代の中国の経済成長とともにかなりの程度水平的なものへと変わった、換言すれば相互依存がより深化したと言える。
 こうした相互依存は人の交流をみても容易に理解できる。国交正常化から七年目で近代化路線のはじまった一九七九年、日本から中国への入国者は約五・四万人であったが、一〇年後の八九年には約三九・五万人に、そして九九年には約一二二・七万人に飛躍的に増加している。また中国から日本への入国者も、七九年約一・二万人、八九年約一〇万人、九九年約三二・七万人と同様に飛躍的に伸びている(3)
 ところが負の交流もある。このような公式統計に出ない、中国からの不法入国者も一九九〇年代に入って急増したからである。それは結果として社会犯罪などの温床ともなり、不法滞在中国人のかかわる事件が多発しメディアで連日のように報道されることで、中国に対する負のイメージが拡大する要素の一つともなっている。
 相互依存の深化は、関係を強化させるプラスの面と摩擦を増大させるマイナスの面とがある。日中関係は「友好」を掲げスタートしたが、それは限られた人々の間の「友好」であった。しかも「友好」を前提に相互依存が進んだために、起こりうる「違和感」や「異質感」の認識を抑えつつ相互の交流が広がり深まった。本来「友好」は「違い」を克服・調整しつつ、交流のなかではじめて実現できるものである。ところが日中関係の場合、方向が逆であった。「友好」が前提としてあったがゆえに「違和感」や「異質感」が広がっているのが現在の日中関係である。
 

(1)この点の分析に関しては、Shigeru Ishikawa, "Sino-Japanese Economic Co-operation," The China Quarterly, No. 109, March 1987, が明快である。
(2)統計については、三菱総合研究所編『中国情報ハンドブック』二〇〇〇年版、蒼蒼社、五一〇―五一四ぺージ、参照。
(3)同右、五六四ぺージ。
三 世代交代
 一九七二年の日中共同声明のなかで、日本側は「戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と述べることで過去の中国侵略についての立場を明確に示し、これをうけて中国側も「中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄すること」を宣言した(1)。そして両国は戦争状態の終結を宣言するとともに、社会制度の違いを乗り越えて「善隣友好関係」の樹立をめざすことを確認しあった。
 ここにあるのは過去の侵略と戦争という悲劇を二度と繰り返すまいとする両国の決意であり、その象徴が「日中友好」の大原則であった。もちろん過去の侵略や戦争に関してはさまざまな立場も存在したが、概してこれらの戦争世代に共通していたのは不戦の決意であり、その象徴が「小異を残して大同を求める」ことを前提にした「日中友好」のスローガンであった。
 日中国交正常化の全過程に携わった日本の田中角栄や大平正芳、中国の毛沢東や周恩来はすでに故人となって久しい。その下で具体的な働き手として活躍した廖承志はすでにこの世の人ではなく、竹入義勝も現役を引退している。その後を考えても、日本では日中平和友好条約のときの福田越夫や園田直もすでに他界しているし、この段階での日中友好議員連盟も党派を越えて規模と活動において現在とは比べものにならないほどであった。中国側で言えば、一九七〇年代末以来中国の圧倒的リーダーとして君臨した小平という巨大な存在が九〇年代から引退の過程に入り、九七年にこの世を去った。
 中国側による戦争賠償の放棄は、日本側にとっては国交正常化の前提条件の一つではあったが、同時にそのことが当時の各界のリーダーたちに一定の道義的責任や贖罪の意識を潜在させ、その後の対中経済協力への隠れた促進剤となった面があることを完全には否定できないだろう。もちろん賠償放棄が中国政府の公式の決定であった以上、それと円借款や経済協力との関連性について公に語られることはなかったし、いかなる公文書にも記されていない。それはあくまで戦争世代の心理のうえでの結びつきにすぎなかったと推測する以外にない。ちなみにこのとき対中円借款への道筋を切り開いた首相は大平正芳で、外相は経済学者の大来佐武郎、いずれも中国との「友好」を強調した世代であったことは間違いない。
 財界には中国との「友好」を唱える多くの人々がいた。一九七八年に日中平和友好条約が締結され、それに先立って民間レベルで日中長期貿易取り決めが調印されると、日本企業は雪崩をうったように中国市場へと向かった。そのとき「日中友好」のシンボルと言われたのが、新日鉄の全面的な技術協力によってはじまった上海の宝山製鉄所であった。元新日鉄会長で経団連副会長・日中長期貿易協議委員会委員長の稲山嘉寛、経団連会長や日中経済協会会長を歴任した土光敏夫、日中経済協会理事長の川合良一、同協会顧問の岡崎嘉平太などが対中経済協力の世論づくりに奔走し、貢献した。
 「つよく周恩来が言ったです(ママ)、『中日協力してアジアをよくし、アジアに力をつけよう』と。そのためには日本に対する恨みを忘れるんだと言ってるのですね。これができたら、非常にいいと思うんですよ。そういう点から考えると、中国の『四つの近代化』に対する協力、あるいは朝鮮半島全体に対する日本の態度は、かなり考え方、やり方を変えなきゃいかんところがあると思ってるんです(2)」。こうした岡崎の発言に、彼の世代が共有する一つの思いが凝縮されている。
 ところが一九九〇年代に入ると、両国の関係を支えてきた戦争世代は後進に道を譲り、九五年には戦後五五年を迎え、日中関係を支える人的ネットワークの構造が大きく変化しはじめた。もちろん世代が交代しても日本の中国侵略という歴史の事実が消えるわけではない。しかしいくら歴史の認識や教育を強調したところで、戦争を直接体験していないこと自体が、皮膚感覚や認識の度合いにおいてそれ以前の世代と一定の違いを生じさせることは避けられない。これは日本においても、また中国においても基本的に同じである。
 ただ中国においては初等・中等教育の段階で共産党史との関連で近現代史教育が徹底されるのに反して、日本でそれが特別に扱われているわけではなく、そこに教育面での非対称性が存在していた。そのあたりの摩擦が最初に現われたのが一九八二年の教科書問題だが、このときは「小異を残して大同を求める」形でほぼ沈静化した(3)。ところが特に戦後五〇年の九五年あたりから、中国では若者の政治的無関心や共産党への信任低下をくい止めるためか、党権力の正当性を訴える抗日戦争期の歴史・愛国教育が強化された。この間、日中間でも歴史認識との関連で、靖国神社への首相・閣僚の参拝や閣僚の「暴言」などの問題をめぐってときおりぎくしゃくする事態が発生していた。
 そして一九九八年秋の江沢民訪日では、前述したような問題が起こり、日本国内では過去の行為を「侵略」と認める多くの人々ですら、中国側の繰り返しの言及にやや「疲れ」を感じたのであった。これも前述したとおり、このところ中国は諸般の事情を配慮してか歴史問題への言及を控える傾向にある。ただ、日本国内では「新しい教科書をつくる会」を中心に中学の歴史教科書づくりが進められており、民族主義的色彩が濃い内容とみられているだけに、新たな教科書問題の火種となる可能性がある(4)
 世代の交代にともない、従来に比べ、このところさまざまな場で「日中友好」のスローガンが使われることが減少しているようにも感じられる。かつて「日中友好」は摩擦発生時の万能薬であったが、若い世代はより現実的に、そして論理的にお互いをみる傾向がある。今日、政治家や財界人のなかで「日中友好」のために奔走する人材がどれだけいるであろうか。あらゆる問題を「日中友好」によって解決しようとした時代からみれば、よりリアルな関係に向かっているようではあるが、それだけにそこにはしっかりとした紛争解決のための制度的チャンネルと人的ネットワークが備わっていなければならない。現在の日中関係においては、この点がまだ不十分なだけに危うさを残している。
 

(1)『日中関係基本資料集』一九四九年―一九九七年、霞山会、一九九八年、四二八ぺージ、
(2)伊藤武雄・岡崎嘉平太・松本重治『われらの生涯のなかの中国』、みすず書房、一九八三年、二八〇ぺージ。
(3)教科書問題の背景については、両国の国内事情から綿密に分析した研究が出された(Caroline Rose, Interpreting History in Sino-Japanese Relations: A case study in political decision-making, Routledge, 1998).
(4)韓国では歴史家の間ですでに懸念が出はじめている(『朝日新聞』二〇〇〇年一二月三日、二五面、参照)。
四 台湾の変容
 日中国交正常化は、日本が台湾との外交関係を断絶し、中華人民共和国を中国を代表する唯一の正統政府として承認することで可能となった。一九五二年から七二年まで、日本は台湾の「中華民国」を中国を代表する正統政府として承認していたが、米中接近とその後の対中正常化への国内世論の高まりのなかで国交正常化が実現し、台湾との関係については、大平外相の談話によって国交断絶と日華平和条約の終焉が宣言された(1)。ただ、断交後も日本と台湾の間には経済を中心とした民間の関係は残り、紆余曲折はあったが、航空路線もどうにか維持することができた。
 これ以後、ビジネスや観光を除いて、一般の日本人の視野から台湾の存在はかなり薄くなっていった。台湾と政治的関わりをもつ日本人は、政治家にせよ学者にせよ、極端にいえばその多くが介石個人やその「反共主義」に共鳴する、もしくは中国に強烈な反感を抱くような社会的には必ずしも多数者ではなかった。たしかに当時の台湾は介石を中心とする国民党一党独裁体制のしかも戒厳令下の状況にあり、政治体制の点で言えば民主主義とは程遠い存在であった。七五年の介石死後、しばらくして権力の座についた息子の経国は基本的に父の路線をそのまま継承するかに思われた。しかし彼は隣国フィリピンでのマルコス政権の崩壊と民主化に触発されるように、八六年から民主化の導入に踏み込み、民主進歩党(民進党)の結成による複数政党制の実現を実質的に容認するに至った。ところが八八年一月、経国は突然の死を迎え、その結果副総統で生粋の台湾人(本省人)である李登輝が自動的に総統に就任した。
 李登輝の就任後の大胆な民主化政策の導入と、それによる「中華民国の台湾化」の急進展については多言を要しない(2)。簡単に言えば、それまで台湾を支配していた戦後中国から流入し権力エリートとして君臨していた外省人・国民党の時代は終わり、多数者にもかかわらず支配されてきた本省人を中心とした国民党の時代がはじまった。その帰結点が一九九六年に歴史上はじめて行なわれた総統直接選挙における李登輝の圧勝であり、最終的には李引退後の二〇〇〇年の総統選挙における独立を掲げてきた民進党・陳水扁の勝利であり、国民党の完全敗北であった。このことは、実質的に共産党と国民党の関係(国共関係)としての中台関係の終焉を意味していた。このような台湾の一連の動きを、中国はすべて「隠れ独立派」李登輝の「陰謀」と判断し、徹底的に非難しつづけた。
 台湾が民主化を遂げつつある同じ時期に、実は中国も台湾を追いかけるように政治改革に踏み出している。それがまず一九八七年一月に学生運動に寛容であった胡耀邦党総書記の失脚につながり、その後も台湾に対抗するかのように趙紫陽新総書記のもとで政治改革をつづけたが、結局八九年六月四日の天安門事件という悲劇のうちに幕を閉じた。ここに犠牲者を出さずに民主化を実現した台湾と、犠牲者を出して民主化に失敗した中国との非対称な結末が明確となった(3)。歴史的には「勝った」はずの共産党が、「負けた」はずの国民党に複雑な思いをもったことは言うまでもない。
 このような展開は、世界の注目するところとなった。日本でも(前述したように、中国に対する好感度がここから急激に低下し、代わって台湾に対する好意的な関心が急激に高まることとなった。とりわけ戦前の日本統治下での経験から日本に特別な愛着を感じていた李登輝が、完璧な日本語で台湾を訪れる日本のエリートを魅了していったことの効果も絶大であった(4)
 こうして日本では、それまで介石個人への敬慕や反共主義の観点から中国に反感を抱いていた人、あるいは国民党との利権絡みで台湾に近づいていた人、さらにはそれまで中国にのみ関心をもち台湾にほとんど関心をもっていなかった人、いずれもがいつのまにか旧来の外省人・国民党と袂を分かちはじめ、「民主主義」で李登輝の台湾に共鳴するようになっていた。
 もちろん日本もアメリカも、現在でも変わることなく中華人民共和国を中国を代表する唯一の正統政府として認めている。今後も、台湾の「中華民国」を中国を代表する正統政府として承認することはありえないし、中国が武力を行使する可能性が高い「台湾独立」を容易に支持することもありえない。その点で台湾問題についての「七二年体制」に変化はない。だが台湾の経済と政治の面での自主的発展をどのように評価するかについては、日米だけでなく、世界各国で大きく変化した。要するに、民主化以後の台湾に対する肯定的評価とある種の同情は、世界大に広がっているといっても過言ではない。
 

(1)大平外相の談話については、前掲『日中関係基本資料集』一九四九年―一九九七年、四三〇―四三三ぺージ、参照。
(2)台湾の政治体制と民主化過程については、若林正丈の一連の著作を参照のこと。特に『台湾――分裂国家と民主化』、東京大学出版会、一九九二年。
(3)この点に関しては、天児慧「日本からみた台湾問題と転換期の日台関係」『国際問題』第四八八号(二〇〇〇年一一月)、も同様の指摘を行なっている。
(4)李登輝と日本とのかかわりについては、李登輝『台湾の主張』、PHP研究所、一九九九年、参照。
むすび――協調への方途
 以上において、国交正常化以後に形成された日中関係における「七二年体制」が、とりわけ冷戦終結時期と歩調を合わせるように大きく構造転換を遂げはじめたことを四つの角度から分析した。現段階の日中関係は、いまだ新たな構造のみえない過渡期にある。そこで新たな世紀の新たな体制への構築へ向けて、何をなすべきかについて若干の提言を行なうことでこの論文を締めくくりたい。
 第一の国際秩序の構造変動に関して言えば、現段階では冷戦時代に日米中共通の対抗目標であったソ連のような存在が今後出現することは考えられないし、そうした秩序形成そのものも不健全である。今後ともこの地域の秩序形成にあたり、おそらく中国が国内的にもまた国際的にもどのような軌跡を描くかが一つの重要な要素となろう。また、かつては米中関係や中ソ関係などの外的変数が日中関係の帰趨に与える影響が大きかったが、二一世紀の時代は、どうやら日中関係のあり方そのものがこの地域の秩序形成に大きな影響を与えそうである。日中関係の課題は、もちろん二国間のなかで処理されなければならない面は大きい。しかし同時に、アジア金融危機の経験から近年ようやく具体化しはじめた東南アジア諸国連合(ASEAN)+日中韓(テン・プラス・スリー)のような、地域協力のなかに日中もともに溶け込むことで、迂回的に二国間の関係の基礎を固めることも可能であろう。
 第二の相互依存の深化に関して言えば、それ自体は協調的関係の形成にあたってマイナスではない。ただそこで起こる摩擦の処理いかんではさらなる対立の源泉ともなりうる。必要なことは、摩擦を起こさせない、もしくは起こった摩擦を最小限にくい止めるためのメカニズムの構築である。特に重要なのは、経済関係における摩擦の防止である。契約・経営における権限・慣習・発想、およびそれを支える経済・法・政治などの制度面の実情についての正しい相互理解が必須である。中国がやがてWTOに加盟すれば、さらなる市場化と透明化へ向けて巨大なシステム転換を図らねばならなくなるだろう。この点から言えば、日中は二国間だけの基準づくりに励む前に、国際基準のなかにお互いを位置づける作業が必要であろう。
 第三の世代交代について言えば、それへの対処法は論理的には簡単である。つまりあらゆるレベルの人的ネットワークの形成と構築である。さしあたり三つのレベルの交流が想定できる。第一は政府間チャンネルであり、首脳会談を含めた政府指導層同士の交流である。特に今後とも摩擦の予想される安全保障や経済の問題について、この分野のリーダー間の連絡チャンネルをより整備すべきだろう。第二は草の根チャンネルで、市民交流、地方間交流、ビジネスや留学などを通して形成される国家関係の基礎となるものである。第三は政策決定に影響を及ぼしうるような有識者レベルのチャンネルである。今日、政府間と草の根の中間領域で、両者に影響を及ぼしうる有識者のいわゆるトラック・ツー(track two)の有効性が注目されている。こうした有識者チャンネルを日中間でもさらに増やす努力が必要であろう。
 第四に台湾について言えば、たしかに民主化とともに日本の台湾イメージも大きく変わったとはいえ、感情や同情だけで国際政治が動くわけではない。そこには現実を直視したバランス感覚が必要である。中国との関係を犠牲にしてまで、日本が台湾との正式な関係を回復させようとすることはまずありえない。基本はやはり中台間の平和的解決であり、両者の緊張関係を高めないように、たとえ細々とでも中台間の話し合いのパイプを継続させることが必要である。日本はその環境づくりを側面援助すべきである。ただ住民の合意を欠いた強制的な国家統合はやがて破綻をきたす、このことは二〇世紀の経験が証明している。解決できない問題は次世代に任せる、これは故小平の歴史の知恵ではなかったか。
 二一世紀の扉は開かれた。永遠に引っ越すことのできない隣国同士の日本と中国はお互いに「違和感」を増幅させたままである。二〇世紀の日中関係は結局のところ十分な成熟を生み出せず、協調への道は未完のままである。二一世紀最初の一〇年、日中両国はともに国内の政治・経済の両面で巨大な試練を受け、大きな転換期を迎えることになるだろう。苦しい隣人同士ならお互いにいがみあうより協力したほうがよい、これは常識以前の話ではないのか。協調への方途へ向け、知恵を出し合うことに努力を惜しむべきではない。
国分良成(こくぶん りょうせい)
1953年まれ。
慶應大学法学部卒業。慶応大学大学院修了。
慶応大学法学部助教授を経て現在、慶応大学法学部教授。慶應大学東アジア研究所所長。
 
 
 
 
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